2018年11月25日 教会学校分級資料 「新しい天と地の創造」イザヤ書65章17-25節
西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「すべての民の祈りの家」
◆イザヤ書について・・・
・新天新地について語るイザヤ書65-66章とヨハネの黙示録21-22章との共通点があるように、イザヤ65章は創世記の最初の3章と密接なつながりがあります。そのことを今回の学びの中で確認しましょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教
◆黙想のポイント
神が再創造されようとしておられる世界は、黙示録の預言と共に創世記の最初の3章の内容を連想させます。創世記のエデンの園物語に語られている神の祝福や裁きの箇所を参照しながら黙想しましょう。
◆65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
>>>「初めからのこと」とは、エデンの園でアダムとエバが神に背いて死ぬ存在となり、裁きを受けなければならなくなった時のことを連想させます。その時から始まった人類の悲劇が、完全に忘れ去られる時が来ることをイザヤ書は預言しています。
65:18 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。 65:19 わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 65:20 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。 65:21 彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。 65:22 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。 65:23 彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。
>>>アダムたちが罪を犯す前のエデンの園での生活が回復されている様子が語られています。19節は悲しむ者がいなくなること。20節は死ぬ者がいなくなること。21-23節は生活の不安が無くなること。また、戦争や略奪が無くなり、労したことに常に報いが伴い、神の祝福を実感しながら生活できるようになることが語られています。
65:24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。
>>>この表現は、罪を犯した直後の神とアダムたちとの会話と対象的です。創世記3章8-9節『その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」』を参照すると、神が語りかけるよりも前に、神が近づく足音にさえおびえ、遠ざかってしまうアダムたちが描かれています。そんな彼らの方へ神の方から近づいて行き、「どこにいるのか」と呼びかけ、彼らがどれほど霊的・肉体的に神との距離が生じてしまっているかが表現されています。それとは対象的な表現が今回のイザヤ書の24節で、神と人との心理的な距離が、極限まで近いものとして表現されています。
65:25 狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。
>>>創世記1章29-30節を読むと『神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。』、もともと人間以外のあらゆる生き物が、青草(野菜も含まれるのかも知れない)を食べながら、互いに平和に共存していたことが記されています。その最初期の原則に従って、生き物たちが再び平和に生活するようになるのです。ただし、25節には一つだけ、過去と未来の決定的な違いがあります。「蛇は塵を食べ物とし」という部分です。創世記3章14節は、アダムたちを誘惑し、神に背かせ、死に至らせようとした「サタン・悪魔」を象徴する蛇への裁きです。『このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。』と断罪しています。イザヤ書65章25節で「蛇は塵を食べ物とし」は、この創世記3章14節での蛇への裁きが、未来に至るまで不変であることを語っています。また、イザヤ書の最後の2章は、神の永遠の祝福に至る希望の一方で、神が世の初めから警告している裁きが成し遂げられることも預言しています。現在の私たちを取り巻く環境を考えると、この世における神の裁きのまっただ中に置かれているかのように、希望を失って生きている人々が大勢います。しかし、困難な状況のただ中でも神の恵みを感謝し、希望を見失わないで生きている人々もいるのです。今回の聖書教育誌の執筆者たちが私たちに指し示す視点や問いかけにも耳を傾け、共に今回のイザヤのみことばを分かち合いましょう。
◆話し合いのポイント<聖書教育誌を読んで>
- 聖書教育誌では、柳の木が冬の間は枯れているように見えても、春に向けて芽吹きの準備が見えないところで着実に進められているように、神の救いの御業も変わることなく続けられており、神の約束も時期が到来すれば必ず実現するというイザヤの預言と関連させています。また、25節で表現されているように、人間のみならず、すべての被造物の再創造がなされていくというイザヤの預言にも着目しています。
- また、聖書教育誌は、古い天と地の中に今なお生きている私たちにも着目し、その現実の中に誕生され、共に居続けて下さる主イエスの存在に気づかせてくれます。
- 青年成人科の話し合いのポイントでは、「不確実で危機的状況のただ中にいる隣人に私たちは何ができるか」という問いがなされています。また、アドベント=待降節=主イエスの再臨とみことばの成就を祈念するこの季節に、イザヤ書からどのような希望のメッセージを受け取ることができるのか考えさせます。
- 少年少女科では、時間的に将来訪れる新しい天と地の約束とは別に、現実が変わらなくても、うつむいていた自分の顔を上にあげさせて下さる神の御業に着目しています。私たち一人一人の心の内で、今この瞬間にも始まる神の御業が、厳しい現実の中に生きる私たちにもたらす変化について考えさせられます。
*これらの視点を参考に豊かな分かち合いがなされることを期待しています。
- 課外編その1)今回の聖書教育誌のイザヤ書シリーズのように、イザヤ書を3区分し、実際にはイザヤ以外の人物も執筆に加わり、編集したとする近代の研究に基づいた聖書解釈もあれば、参考書・時代背景などの知識なしに聖書を読む方法もあります。聖書はもともと、あらゆる時代のあらゆる教育と生活環境の中にいる人々が、聖書を通して神のみことばと向き合うことが赦されている書物です。従って、それぞれが置かれている状況に合わせて豊かな学びをすればいいのであって、自分の聖書解釈を絶対化して、他の読み方を否定することは意図されていません。最新の神学に耳を傾けながら聖書を読むことの豊かさもあれば、古典的な聖書解釈に耳を傾けながら読む方法、また、他の参考書を用いずに聖霊の導きだけを頼りに、聖書と真摯に向き合って読む方法もあるのです。西川口教会の聖書の学びが目指しているのは、様々な視点を大切にし、各自がこれまでに得た知識と経験を生かしながら、豊かな分かち合いがなされていくところにあります。
- 課外編その2)創世記3章最後の24節「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」は、黙示録も示唆している、エデンの園のような新しい天と地に、人類が再び戻るための方法が示されています。そこで、問題となるのは「ケルビム」と「きらめく剣の炎」が何を意味しているのかということです。ケルビムは、出エジプト記25章10節以下にあるように、「掟の板」を入れておく契約の箱の蓋上に置かれる、向かい合った一対の天的な翼を持つ生き物を指します。続く22節にはこうあります。「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。」すなわち、ケルビムとは「神の言葉」に向き合うことを象徴している存在です。そして「きらめく剣の炎」は、イスラエルの民がエジプトから脱出し、40年間荒野をさ迷った時に彼らを導いた雲の柱を連想させます。出エジプト記13章21節「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」これは、私たちの現実の過酷な環境において生活を導き、道を照らす「聖霊」を象徴していると考えられます。さらには、これらに支えられながら、エデンの園へと至る「道」そのものを通って、私たちは神が導かれる約束の地に進む必要があります。主イエスは言われました「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネによる福音書14章6節で語られているように、主イエスこそ、エデンの園、また新しい天と地へと確実に至るための不可欠の道そのものだと、聖書は示唆しているのです。
聖書の最初の書である創世記の初めの3章、最後の書である黙示録の最後の2章、そして聖書の中央に位置するイザヤ書のいずれも、一貫して神の国における祝福へ続くキリストと共に歩む道を私たちに示しているのです。
以上で、今回のイザヤ書の学びを終わります。皆様の祈りに感謝します。