西川口キリスト教会 齋藤 信一郎 牧師
今月の主題…「主イエスの御業を引き出す信仰」
◆第2章から今回への流れについての補足
・2章の最後の話は、安息日にしてはならないことに関する律法(聖書)解釈の議論でした。ファリサイ派の人々は、麦の穂を摘んで食べた弟子たちを問題視して、イエスとの問答に発展しました。ファリサイ派の人々は、イエスの答えを聞いて、イエスが弟子たちの行為を容認した危険な指導者で、世間に悪影響を広げていかないようにする必要を強く感じ、イエスを有罪にしようとしていたことが今回の話しの背景にあると考えられます。
黙想のポイント
・神の御前に罪を赦され、贖われ続けている存在として、またそれにも関わらず神の福音宣教の業に招かれている者として、神を礼拝し、感謝し、共に賛美する場が礼拝であるはずでした。しかし、その礼拝の場がイエスを理解できず、赦せず、断罪しようと目論む人々の現場になっていました。そのような人々を前にして、主イエスはどのような思いで向き合われたのか黙想しましょう。
<まずご自分で聖書本文を読み、黙想してから聖書教育誌やこの後に書かれている内容、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むことも有意義ですのでお試し下さい。>
◆手の萎えた人をいやす
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
>>>上記補足を参照していただいた上で、今回の場面でファリサイ派の人々が注目したのは、安息日に治療行為をしてはならないという律法理解を主イエスが破って会堂で誰かを癒すかどうかを目撃し、それを口実に律法違反者としてイエスを訴えようとするものでした。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
>>>主イエスはそのような策略が事前に思いめぐらされていたことを見抜いた上で、それに対抗し、挑戦するかのように彼らが願っていた行動をとります。会場の恐らく片隅に遠慮がちに出席していた、片手の萎えた人(腕がうまく発達せずに萎縮して自由に動かせない障害を負っていた人)を会堂の中心へと招きます。恐る恐る、また期待を膨らませながら、会堂の脇から中央に移動する姿が目に浮かびます。また、同じ場所へ移動する主イエスの姿も想像できます。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
>>>主イエスは安息日に病人や障害を負った人を癒すことが、律法と照らし合わせて違反と見なされるか、それとも赦される行為かどうかを議論せずに、違う視点から会衆に問いかけました。最初の問いはだれもが同じ答えを持つと考えられる問いでした。聖書教育誌では、この動機をファリサイ派の人々がいつも律法に照らし合わせて善か悪かばかり考えていたために、もっと大切な人々の命=より幸福に生き、礼拝できる権利について無関心であったことに対する皮肉のこもった言葉だったのではないかと述べています。次にイエスは命を救うことと殺すことについて人々に問いかけています。当時の人々の狭苦しい律法理解に対するイエスの批判が読み取れます。「人の命を助け、苦しみや人生における生活上の不自由さから解放することまで、神は安息日にしてはならないと禁じてはおられない」と、主イエスの言葉が聞こえて来そうです。最後の6節では、本来、命を救うことに心を向けるべきファリサイ派の人々が、主イエスを殺す企てを礼拝直後にするのですから、このイエスの問いは的を得ていたものだったと言えます。しかし、このイエスの問いに返事をした人は誰一人いませんでした。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
>>>障害を負っていたために、礼拝にいつも不自由さを抱えながら参加している人に憐みの目を向けるのではなく、掟を厳守させることと、守らない人を処分することに執着する人々の心を嘆かれ、怒りさえ持たれた主イエスでした。礼拝の場で癒しを行ったことが後で問題になることを承知の上で、片手が萎えた人を主イエスは癒されました。主イエスが「手を伸ばしなさい」と直接呼びかけられたのは片手の萎えた人でした。しかし、主イエスはその場に居合わせたすべての人に本当は呼びかけているのではないでしょうか。特にファリサイ派の人々の心の手は、握りこぶしだったことが想像できます。中には手に凶器を握っている人もいたことでしょう。その他の礼拝出席者も、誰一人として主イエスの問いかけに賛同して手を差し伸べる人はいなかったのです。本当はすべての人の心の手が、それぞれ握りしめている余計なものを手放し、主なる神にそれを無条件で明け渡し、神に向って感謝と賛美の手を指し伸ばして欲しいと、主イエスは願われたのではないでしょうか。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
>>>礼拝を終えてすぐにファリサイ派の人々が話し合ったのは、人を殺す方法だったとは実に残念な話です。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」との出エジプト記20章8節にある十戒は、礼拝の時間だけを指す教えではありません。礼拝の最中も、礼拝後も神の戒めを握りしめるあまりに、神そのものへの礼拝の心も、安息日を聖別することも忘れ去っているファリサイ派の人々でした。しかし、その姿に反面教師として学ぶ必要のある私たちなのだろうと思います。
◆話し合いのポイント(聖書教育誌と連動させて…)
・イエスが律法違反を会堂で行うかどうかに関心を寄せるファリサイ派の人々は、人を個人的な善悪基準で評価し、教会の中でも誰かを裁きがちな私たちの現実への警鐘ではないでしょうか。主日礼拝の日にしてしまいがちな体験があれば分かち合いましょう。一方で、どうしても注意を促したい人がいる場合には、どうすれば相手に届く愛ある進言になるのか、互いに知恵を出し合いましょう。
・イエスは心から礼拝を捧げることに妨げとなる問題を抱えている人の人生に関心を寄せ、共に礼拝するために、自分にできることを選び取って実行しようとします。礼拝に出席することに不自由を感じている方には、どんな人が考えられるでしょうか。また、その方を覚え、教会で協力して取り組むことができる手助けについて分かち合いましょう。