西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「神の人格と意志」
◆あらすじ…
神の存在と神から与えられている人生の使命を見失ってしまった人類。その人類のために神は聖書を通して自らを明らかにして下さった。創世記第1章は、聖書の神こそがこの世界の創造主だということ、また神の人格について明らかにしている。第2章は人間が神と共に生きながら、この世界を管理する特別な存在として創造されていることが語られる。また、人間がその使命を軽んじ、神に背いて生きることを選択する時に自ら被る死という結末についてもあらかじめ警告される。第3章は最初の人間アダムとエバがどのように神とその使命を軽んじて罪を犯し、死ぬ存在になって行ってしまったかが描写される。神がそのような人間になおも愛と忍耐とを持って近づき、悔い改める機会と和解、つまり罪の赦しと罪からの救いの可能性、その道を示される。
黙想のポイント
*神ご自身と、人間が与えられた使命を軽んじてしまった事への神の無念さを黙想しましょう。それでもなお、忍耐強く神に背いた人類を赦し、もう一度、死と滅びへ向かう世界から、神とのあるべき関係が回復される道へと導こうとする神の愛の深さを読み取りましょう。
◆蛇の誘惑
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
>>>蛇は悪魔を象徴しています。その蛇の質問の仕方が巧妙です。女にわざと会話を否定せざるを得ない仕方で話しかけます。最終的には神の言ったことを否定させることが悪魔の狙いなのですが、その前にまず自分の会話を否定させます。下手に出ている蛇の話法には、そのような罠が仕掛けられています。また、蛇は神の絶対命令を、食べていいかどうかという倫理問題へとすり替えるために、女の注意を食べる方へと巧妙に反らしています。
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
>>>女は蛇の罠に気付かないまま、蛇の言ったことを否定して答えます。
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
>>>蛇の巧妙な語りかけは続きます。まず、自信ありげにきっぱりと神が死ぬと警告されたことを否定します。
後でアダムとエバにも神の言葉を否定させるためのものです。次に食べる話題に話を戻します。そして、食べるとどんな結果がまっているのか説明します。ここで蛇が語っていることは部分的に事実です。確かにそれを食べてしまうと「目が開け」「善悪を知る」ことになります。しかし、それはアダムとエバを不幸にするので神は食べるなと言ったことを、あたかも神がその実を独り占めしているかのように錯覚させる内容にすり替えられているのです。悪魔は「偽りの父」と言われる所以です。
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
>>>この誘惑に女はひとたまりもありませんでした。神との信頼と約束と命の木として善悪の木を見ることを怠った女には、その木は「いかにもおいしそう」に彼女の食欲を誘惑し、「目を引き付け」て彼女の美的欲求や所有欲を刺激し、「賢くなる」という知的欲求に働きかけます。我々人類が今日に至るまで、あらがいがたい根源的な人間の欲望が、分かりやすく示されています。また、後半部分はアダムも同罪だということがわかります。彼は、神の命令に背かないように妻の行動を止める代わりに、彼自身も自らの意志で妻同様に実を食べてしまったことが語られています。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
>>>その実を食べてしまった結果は、神の警告通り、また蛇が語った通りでした。「目が開け」るとは、今まで気づかなかったことに気づき、今まで知らなかったことを知ることを指します。そして、彼らは自分たちが裸だということを自覚します。自分のすべてをあるがままに見せることができない偽りに満ちた存在になってしまったことを知ったのです。その結果、二人は聖書に登場する最初の植物である「いちじく」の葉を用いて恥に感じた部分を隠そうとします。聖書でいちじくの木は、神の御言葉に向かう場所、また裁きの時が近いことを象徴する木です。アダムとエバが体験していることと重なります。
余談ですが、聖書には善悪を知る木がりんごの木だとは一言も言ってはいません。それなのに、これまで多くの人があたかも善悪を知る木の実が赤いリンゴだと信じるようになったのは、興味深いことです。悪魔の惑わしは、このような人類の聖書解釈の部分にも入り込んでいることを弁えたいと思います。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムたちが、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
>>>ここからは、神が罪を犯したアダムとエバをどう取り扱ったかが語られます。また、神のせっかくの配慮に対して素直に謝罪できずに、さらに罪の上塗りをする人間の姿が描き出されています。
神は本来、彼らが善悪の知識の木から実を取って食べた瞬間に現行犯逮捕することもできたはずです。しかし、神はそうなさりませんでした。風の吹くころとは、夕暮れ時を指します。一定の時間の経過と闇が迫ってきていることを表現しています。神は怒りにまかせて即刻彼らを裁く代わりに、彼らに悔い改めて自分の方から罪を認め、謝罪する機会を与えられるのです。そこでまず、彼らの目の前にすぐに登場する代わりに、神が近付いてこられる音を通して心の備えを促します。その上で、罪を犯した後のアダムたちへの最初の語りかけの言葉が登場します。それは人類にとっても非常に重要な神の問いかけでした。
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
>>>これは、アダムたちがどこにいるのか神が分からなかったからではないことは一目瞭然です。この問いは彼ら自身に自分達がどれほど心理的に神から遠ざかってしまっているかに気付き、反省させるための神の配慮に満ちた悔い改めを導くための呼びかけなのです。しかし、罪の影響が確実に影響を及ぼし始めている彼らには、悔い改める余裕など残念ながらありませんでした。
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
>>>彼は神が近付いて来ることが恐ろしかったので、隠れたことを語りました。また、同時に彼の裸を見られるのを恐れたからだと語っています。この反応こそ、罪を犯す人間の特徴的な姿です。それまで恐れることなど必要のなかったアダムたちでしたが、神を恐れるようになります。また自分の不都合な部分を隠そうとします。彼がただちにすべきだったことは神に素直に謝ることでした。しかし、彼にはそれができませんでした。
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
>>>そんなアダムたちに、神はこのようなことになった原因は何かを考えさせようとします。彼が裸だということをアダムに告げた存在などいません。つまり、自分自身が一番の問題だということを神は理解させようとします。その上で、直接の間違いがなんであるかについても神は単刀直入に指摘します。つまり、神が食べるなと命じた木から、背いて食べたことを神は指摘しました。
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
>>>アダムはここでも素直に自分の非を認める代わりに女のせいにしてしまいます。しかも、よくよく注意して読むと、「あなたが」と言い、もとを正せば神にも原因があると言わんばかりのアダムの姿が描かれています。
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
>>>「何ということ」に込められた神の無念さを黙想しましょう。ここでもアダムと同様に他人のせいにするエバの姿が伺えます。
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
>>>神は速やかに、かつ的確に裁きを行って行かれます。まずはそもそも罪深いことだと知りながら、自覚的に罪を犯した蛇への裁きを行います。それは極めて重く、的確な裁きでした。蛇は自由な行動を取っては絶対だめな善悪を知る木を食べるようにアダムたちを唆(そそのか)しました。それで、神は彼自身の自由を著しく制限しました。聖書の他の箇所を読むと、もともと悪魔は非常に位の高い天使だったことが伺えます。自由に動き回ることができるからだを与えられていたようです。その自由が永遠に奪われることは究極の裁きだと言えます。また、アダムたちに仕掛けた蛇の誘惑は食べ物に対してでした。それに対応するかのように、神は蛇の食べる楽しみを永久に奪いました。これらの裁きを私たちの身に置き換えると、蛇に対する神の裁きがどれほど深刻なものであったかが理解できるのではないでしょうか。神の怒りの大きさが伝わって来ます。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
>>>ここには早くもキリストをこの世に人間として遣わす預言と、十字架による贖いの預言が登場しています。
彼とは「イエス・キリスト」のことであり、かかとを砕くとはキリストが十字架に架けられる時に足にくぎを打ち込まれて砕かれることを象徴しています。一方で、「頭を砕」かれるとは、悪魔がキリストに最終的には滅ぼされることが預言されている箇所と理解できます。
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
>>>次にエバに対する罪の裁きです。しかし、これは蛇の場合とは違い、的確かつ配慮のあるものでした。自分とアダムの命を軽んじたエバに対して、神は命がけで命を産み出すことを通して、命の尊さと命を育むことの大切さを理解させるという裁きを与えます。合わせて彼女の罪の結果、今後は平等だった世界の秩序が乱れ、性倫理の乱れ(男を求め)や支配関係が生じてしまうことを預言されました。
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
>>>アダムに対しても的確な裁きが宣告されます。他者(自分の妻)の命を守るべき責任を軽んじたことと、神の使命を軽んじたことに対し、その影響が他のものにも及ぶと宣言されました。これを通して神の使命に生きるものの自覚と責任を鍛え直す裁きを行われました。また、本来自然界はアダムたちの管理のもと、アダムたちに平和で豊かな生活をもたらすために存在していましたが、今後は自然界(動植物また地球環境)がアダムたちに反抗することが預言されました。今日、私たちの時代にまで及んでいる現実です。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
>>>自分が何者なのかをもう一度自覚するようにと、神は言われます。アダムは神のようになろうと傲慢になってしまいました。それは悪魔の過ちに倣うものでした。しかし、人間は神にはなれません。神に創造された被造物だという自覚に立ち返り、己が何者なのかを謙虚に受け止める所に立ち帰ることを、神は促されました。キリスト教で重要な用語である「悔い改める」とは、自分が間違った方向に進んでしまっていることを自覚し、方向転換をして神の方に向かって進んで行くことを意味します。
分かち合いのポイント
・人間の根本課題について次々に浮き彫りにされている箇所ではありますが、神の人格と意志について語られている今回の箇所を、あなたはどのように受け止めたでしょうか。
・ヨハネ福音書5章38節で主イエスもこう教えています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」…主イエスが活動された時代のユダヤ人も、この世のあらゆる宗教や私たちでさえも、つい自分たちが永遠の命を得るため、言い換えると自分たちの幸せがさらに豊かに、さらに長く続くためにどうすればいいかを求めがちですが、主イエスはそれらよりも大切なテーマを忘れてはいけないと教えます。聖書が書かれた目的、神が聖書を人類に与えた目的は、神ご自身を知り、神の意志に従う道を示すためだということを主イエスは教えられました。それこそキリストの存在理由であり、この世に遣わされた使命でした。この機会に各自の聖書の読み方をもう一度振り返りましょう。神の導きと意志を求め、それを最優先に生きるべき人間が、どう悪魔の誘惑に影響されて自己中心的な生き方に陥ってしまうのか、自分たちの現実と照らし合わせて再度検証しましょう。