2017年4月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 4/9 マタイ27章45-56節「その時、神はおられた」
西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 主イエスと共に祈る共同体
◆前回からのあらすじ…
ゲッセマネの園で祈られた主イエス。その後弟子のユダが先導した兵士たちに捕えられ、無理やりに十字架刑に処せられて行きます。
黙想のポイント
*この箇所はマタイが一歩身を引いて主イエスの受難の様子を書いているのが分かります。むごく、暗く、つらいはずのこの場面に織り込まれている希望のメッセージに目を止めましょう。
◆イエスの死
27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
>>>イエスのこの言葉は、詩編22編の著者が神に救いを叫び求める聖句と重なります。骨の一本一本を数えることができるほどの激痛の中でも、絶望せずに最後まで希望を見据えている内容となっています。主イエスはそのことを念頭に置いていたのでしょうか。残念ながらその後の言葉はもはや言葉になりませんでした。
27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
27:51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
>>>時を越えて、いくつもの出来事が起こったことが報告されています。特に神殿の垂れ幕は特別に選ばれたその年の祭司だけが入ることが許される神殿の一番奥にある場所のことです。一番奥には契約の箱が安置されていましたが、その部屋は垂れ幕で隔離されていました。主イエスの十字架の死と共にその幕が取り除かれたということは、一部の人々にしか近づけないものだった契約の箱が、すべての人に開かれたことを意味するのかも知れません。あるいは古い契約の時代が終わり、新しい契約の時代が始まったことを意味するのかも知れません。
27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
>>>ここは明らかに時間的な飛躍があり、復活後の話が挿入されています。イエス・キリストの死が新しい命をもたらし始めたことを示唆していると考えられます。
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
>>>この出来事を通して兵士たちも何人か主告白へと導かれていることが報告されています。一人の死刑囚の無残な死の場面が、異邦人たちの信仰の始まりの場面になったことが語られています。
27:55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
27:56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
>>>主イエスの最期を見届けた女性たちの存在についても、マタイ福音書は書くことを忘れません。彼女たちの悲しみと失望も、これから大きな喜びと希望に変わって行くことになります。
*これらの出来事を数百年も前に詩編の著者は22編で描いて見せています。
今回の聖書箇所、冒頭の27章46節で主イエスが叫ぶ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、詩編22編の冒頭にも登場します。
2節 「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」
8~9節 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
>>>この箇所も福音書に登場する主イエスの受難の場面と一致します。
15節 「わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。」
>>>この箇所は主イエスが死んだかどうかを確かめるために槍でわき腹をつつかれた時に流れ出た水を連想させます。
16~17節 「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。」
>>>十字架上で「私は渇く」と語られた主イエスの言葉や、死に直面している言葉、また手足を砕かれるなどの描写も十字架に架けられた主イエスと一致します。
18~19節 「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺めわたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」
>>>主イエスの極限の苦しみが表現されると共に、兵士たちがくじ引きする様子の描写は、明らかに死刑が前提になっている箇所だと分かります。
*これほどまでに恐ろしく、絶望の世界を表現する一方で、詩編の筆者は後半に大きな希望を語ります。
26~28節 「それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。」
>>>世の終わりの後に来る、天国における主イエスを中心にした礼拝を連想させる場面が語られます。しかも、旧約聖書のこの箇所は、ユダヤ人だけでなく、世界中の人々が主を認め、立ち帰り、神を礼拝する姿が語られています。
29~30a節 「王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。」
>>>世界を治められる主なる神が語られると共に、死んだ人々も復活して神の御前で共に礼拝する姿が描き出されています。まさに黙示録と同じ描写です。
30b~32節 「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
>>>22編の最後も注目に値します。復活の希望が語られ、代々にわたって信仰が受け継がれ、終末の時まで福音が告げ知らされていく希望が語られています。
*主イエスが息を引き取られる前に詩編22編の冒頭と思われる聖句を口にされた時、主イエスはこれから始まり、終末まで続いて行く新たな神の国の民を仰ぎ見ていたのではないでしょうか。そして、福音書の記者マタイも詩編22編を念頭に置きながら、十字架の場面に数々の希望を予感させる出来事を織り込んだのではないでしょうか。
分かち合いのポイント
・苦しみの中にある人々に希望を持たせることは簡単なことではありません。しかし、その人々に真の希望を与えることができる救い主こそ、主イエス・キリストだということを歴代のクリスチャンが、そして私たちが目撃して来たことです。喜びえない中で、主イエス・キリストによって希望を見出した体験を互いに分かち合いましょう。