総合テーマ 立場を弁える幸い
◆前回からのあらすじ…
21章以降~エルサレムについた主イエスは神殿から商人たちを追い出し、障害を負った人々を癒される。そしてベタニアで夜を過ごし、再び都に戻って終日神の国について教える。24章ではオリーブ山で弟子たちに終末について詳しく教え始め、今回の箇所に至る。
黙想のポイント
*花婿を迎える者たちが整えておくべき油とは何を指すのでしょうか。そして、その油を十分に用意するために私たちはどうすると良いのでしょうか。それが大きな違いを生むというのが、今回のたとえです。
◆「十人のおとめ」のたとえ
25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれ、ともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
>>>聖書の世界では10という数字は、しばしば教会や町、国を代表する必要十分な人々、もしくはその代表者たちを指す数字として用いられます。このたとえでは、世界中の人々を代表する形で10人のおとめが用いられていると考えられます。
25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
>>>ここでまず、場面設定がなされます。10人の花嫁が5人ずつの二つのグループに分けられます。共通点はどちらも夜間に用いる、ともし火を持っていました。相違点として、片方はいつ花婿が来てもいいように十分に油を用意していたが、片方はその備えが不十分だったという点です。
25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
>>>この箇所は主イエスの別の聖句を思い出させます…「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」…次々回の聖書箇所です。また、注意深く読むならば、彼女たちが迎えるのは「花婿たち」ではなく、単数形で書かれている「花婿」です。聖書教育誌では、おとめたちとは、花嫁のことではなく、花婿を出迎えて、会場まで道案内するおとめたちだと説明しています。
25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
>>>このたとえは、花婿を迎え、道案内するのに準備不足だった者たちが花婿と一緒に目的会場に行き、中に入る機会を失ってしまうという教訓です。彼女たちの使命は、花婿と共に暗い道中を、ともし火を灯して会場まで道案内することでした。従って、不測の事態が起こって、余計に時間がかかっても、足りるだけの油を用意しておくことは当然のことでした。片方のおとめたちは、自分たちに期待されている準備と使命を正しく理解していなかったと言えます。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
>>>今回のたとえの結論は、「目を覚ましていなさい」ということです。自分たちが何を神から求められているのかを正しく理解し、実行することを意味します。自分の使命の大切さを良く理解し、油で象徴される聖霊の導きを絶やさないこと。そして、主イエスを指し示す花婿と、道中を最後までお供することだと示されます。
分かち合いのポイント
・主イエスは十字架というゴールを目前に見据えながら、歩んでいる時でした。数日後には再び「目を覚ましていなさい」とゲッセマネの園でも弟子たちに呼びかける主イエスでした。主の呼びかけに確実に応じるためには、私たちは日頃からどのように備え、生きると良いのでしょうか。共に分かち合いましょう。