西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「福音をどう伝えるか」
黙想のポイント
・天使の御告げをマリアのように受けたとしたら、私たちならばどう反応するでしょうか。マリアの立場に立って黙想しましょう。
◆イエスの誕生が予告される
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
>>>マリアの親類エリサベトがガブリエルの御告げを受けて半年後に、ガリラヤ地方のナザレというガリラヤ湖の下部左方向に20キロの所に位置する町に住んでいたマリアの所に遣わされました。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
>>>マタイによる福音書がヨセフ中心に受胎告知をしたのに対し、ルカではマリアとその親戚であるバプテスマのヨハネの両親の話から始めているのが特徴です。また、マリアの親類の話を持ってくることにより、マリアが祭司の家系であることが強調されています。ダビデ王の家系につながっている夫ヨセフと祭司の家系につながっているマリアが結び合わされることによって、生まれて来る子どもが両方の特性を合わせ持つ人物であることをルカは強調したかったのではないでしょうか。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
>>>ザカリアの時と同様、マリアは戸惑ったとあります。だれであったとしても、人生にそうあることではありません。ここで御使いが語っている「主があなたと共におられる」という言葉はキリスト教で有名な「インマヌエル」という言葉が使われています。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
>>>ザカリアの時と同様に天使は「恐れることはない」と語りつつ、マリアの名前を呼んで、人違いではないことを明らかにしています。更に生まれて来る子どもの性別を預言し、名前まで特別に指定します。イエスとは「神は救い」という意味です。日本では考えられないような名前を付けるように言われたマリアでした。驚きの言葉はさらに続きます。32節では、その子が「いと高き方の子」つまり畏れ多くも神の子と言われるようになると預言します。500年以上イスラエルにユダヤ人の王がいない状態が続いて来たにも関わらず、マリアの子は歴代のイスラエルの王の中でも、ひときわ功績を挙げたダビデ王に匹敵する王座を、神自らがその子に与えられると語るのです。それだけでも信じ難いところに、さらに33節でイエスが永遠に家を治め、かつ支配するなどと途方もないこの世離れしたことを告げたのです。私たちだったら、どう反応したでしょうか。
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
>>>到底信じられないことを聞いたマリアでしたが、踏み留まって天使に素朴な疑問をぶつけます。
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
>>>マリアの質問に対するガブリエルの返事は、一つの主題で統一されています。「聖霊が」、「いと高き方の力が」、「神にできないことは何一つない。」と語り、どんなに常識では考えられないことであり、自分などには到底実現することも受け止めることもできないと思えるような内容であったとしても、マリア自身の能力や資質が問題なのではなく、神の側に全責任があることが明確にされています。その上で、マリアがこの信じられない出来事を共有し、励まし合える親類がいることを告げるのです。神の側では用意周到な準備がなされていることが語られます。
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
>>>驚くべきことに、この信じられないような天使の言葉をマリアは自分のこととして受け止めることができたのです。このような信仰があったからこそ、キリストを宿すことができたのではないかと考えさせられます。マリアの信仰に学ぶべきことは多いのではないでしょうか。
分かち合いのポイント
・聖書の教えの中には、実際には私たちの身に実現して欲しくない内容や、自分は実行したくない、もしくは到底実行できないと思えるような教えは案外多いのではないでしょうか。そのような現実の中で、私たちもマリアのように、日々、聖書の神の御言葉がこの身に実現できますようにと祈るためには、どうすればいいでしょうか。互いに分かち合いましょう。