西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「変わることのない神の約束」
◆今回の学びを始めるにあたっての前提
とても難解な箇所です。聖書教育誌では、第二イザヤの視点から読み解いていますのでご参照下さい。ここでは純粋に新共同訳聖書本文から理解を深めて行きます。
黙想のポイント
・今回は理解が困難な箇所が多くあります。分からない箇所は分からないこととしながら読みましょう。また、この箇所はイエス・キリストを預言しているとされる重要な箇所です。これらの箇所にどのようにイエス・キリストが示唆されているのか黙想しましょう。
◆主の僕の苦難と死
52:13 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。
>>>この表現は人間に用いることが赦されない表現です。ユダヤ教の世界においては、あがめる対象は神のみだからです。ここで登場する「わたし」が主なる神だとするならば、「わたしの僕」は別の存在ということになります。従って、この箇所はキリストが示唆されていると考えられます。
52:14 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように/彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。
>>>「多くの人をおののかせたあなた」とは誰を指すのでしょうか。それは一時はダビデ王とソロモン王時代に他国に名を馳せたにも関わらず、アッシリヤ帝国とバビロニア帝国によって徹底的に傷つき、捕囚の身となる南北イスラエルを指すのかも知れません。次の「彼」とはイエス・キリストを指すと考えられます。その人物の姿は損なわれることが示唆されていますが、人間には見えないような損なわれ方をすることが語られています。十字架に架けられる前に兵士たちから受けた暴力によってでしょうか。
52:15 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
>>>「彼を見て、王たちも口を閉ざす」とあります。王たちとはだれを指すのか分かりません。全体的にこの箇所の意味も漠然としています。
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
>>>この箇所は新約聖書で引用されています。ヨハネ福音書 12章38節『預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」』
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
>>>主イエスは聖画で見るような人物ではなかった可能性があります。一説にはガリラヤ人は団子鼻でがっちりした顔立ちの人が多かったようです。主イエスもそのような風貌だったのでしょうか。いずれにしても、この箇所で表現されている人物は渇いた大地から生え出るひ弱な若枝のような人物として描かれています。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
>>>これは主イエスの少年時代~青年時代のことを語っているのでしょうか。「彼」が顔を隠すという表現は、公の宣教活動を開始するまでの約30年間を指すのでしょうか。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
>>>複数の箇所で使われる「わたしたちの病」という言葉は「私たちの罪」に置き換えると、より意味が通じるようになります。すると主イエスがわたしたちの罪の苦しみを負って下さったと理解できます。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
>>>主イエスは十字架にくぎで打ちつけられ、兵士の一人に槍でわき腹を刺されます。それは「わたしたちの咎」つまり私たちの罪のためであったと説明しています。まさに十字架のあがないを連想できる箇所です。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
>>>ここでは、さらにはっきりと「罪」という言葉を用いてテーマを明確にしています。連続して、これらの箇所は罪のあがない主イエス・キリストを連想させます。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
>>>この場面は主イエスが石畳の道を十字架を担がされて歩むヴィア・ドロローサを連想させます。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
>>>ここには「彼」が裁判に掛けられ、死刑判決を受け、死刑になって死ぬことが明確に語られています。しかも、それが神のご計画だったと表現されています。死をもって罪のあがないを遂げられた主イエスを連想させます。
53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。
>>>聖書の基本的な理解では、神に義と認められた人物は死ぬことはありません。神に対して極めて忠実に生きたエノクは死んで墓に葬られることはなく、「神が取られたのでいなくな」りました。「彼」も不法を働かず、偽りがなかったのでエノクのように神にとられていなくなってもおかしくなかったのですが、罪人がたどる「死」の裁きの道を進んだことが語られています。これもイエス・キリストの生涯と一致します。
53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
>>>「彼」が明確に償い=罪の贖いの献げ物にされたと語られています。また、死ですべてが終わらなかったことが表現されています。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
>>>主イエスの復活の勝利を連想させます。私たちが神に義とされるために主イエス・キリストが私たちの罪をご自身に負って下さったという福音がよく表現されています。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
>>>この人物が死刑にされたこともこの箇所で明確にされています。しかも後半部分は十字架の上で罪人のために執り成しの祈りをされた主イエスの姿を連想させます。これらすべてが主イエス・キリストを指していることがよく分かる箇所ではないでしょうか。
分かち合いのポイント
・黙想のポイントに沿って自由に分かち合いましょう。また、難解な表現の箇所についても互いの意見や解釈を聞き合いましょう。