西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「 苦難に正しく向き合うための信仰 」
◆今回の学びを始めるにあたって
ヨブの3人の友人エリファズ、ビルダド、そしてツォファルが自分の罪と向き合い、罪を悔い改めるように促したのに対し、第4の人物エリフは神の計り知れない創造目的に目を向けるように促しました。このエリフの言葉に続けて、今度は神から38~39章にかけて直接天地創造の神秘について聞くことが赦されるヨブでした。続く40~41章ではヨブ、そして人類の真の敵である神の被造物の中で最も強大な権力を握り、驕り高ぶる者たちの上に君臨する(41章26節)サタンを象徴すると考えられるベヘモット(40章15節)とレビヤタン(40章25節)を裁き、打ち負かすことができるかと迫り、万物の最終的な裁き主としての神の一面を覗かせます。つまり、真の創造主にして真の裁き主、そして万物の完成者としてのご自身の存在をヨブに啓示します。これを受けて最終章である42章のヨブの言葉が語られます。
黙想のポイント
・結局、神がこれほどの試練を通して導きたかった、それまでのヨブの人生で不足していたもの、未熟だったものとは何だったのでしょうか。それは旧約聖書の時代と新約聖書の時代の重要な違いに通じるものであり、バプテスマのヨハネとイエス・キリストの福音宣教の違いであり、当時のユダヤ人と主イエスの福音理解の違いに通じる聖書の中心主題でもあります。ヨブはこの死ぬほどつらい試練を通して、どう生まれ変わったのでしょうか。
◆ヨブの応答
42:1 ヨブは主に答えて言った。
42:2 あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
42:3 「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
42:4 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。
>>>苦難に遭う前のヨブは、私たちが太刀打ちできないほど清く、正しく、信仰深い人生を歩んでいた人物でした。その一方で、ヨブの神礼拝を象徴的に表しているのは、自分の子どもたちの罪を贖っていただくために犠牲を捧げて礼拝するという、犠牲を捧げることが中心の礼拝でした。ヨブのよ
うに非常に神に祝福された人々が羨むような成功を手にしていた人生においては、それを失うことへの恐れと、自分や子どもたちが神に罪を犯して神の祝福を失わないかと言う大きな恐れが、存在していたことが伺えます。罪を悔い改め、また他の人の罪を自分のこととして受け止めることは、旧約聖書の中心概念です。バプテスマのヨハネの宣教も罪の悔い改めが中心でした。しかし、それを理解し、実践するだけでは、神がこの世界を創造された最終目的とはなりません。
それは何かということについては、前回箇所の38章7節の神の言葉に象徴されているように
「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。」
つまり、神がヨブに求めておられたこととは、神の計り知れない創造の御業の素晴らしさと神の計り知れない愛と犠牲によって罪をあがなわれたこと、そして神が最後には完全に悪を滅ぼし、万物を完成して下さることを信じ抜いて、どんな時にも賛美が絶えない礼拝者となることでした。いつも祝福に満たされていたそれまでのヨブにとって、心から神の御業を賛美する礼拝者としての生き方は返って難しかったのかも知れません。
◆結び
42:7 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。
42:8 しかし今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう。」
42:9 テマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルは行って、主が言われたことを実行した。そして、主はヨブの祈りを受け入れられた。
>>>ここで神が問題にしたのは、ヨブや3人の友人たちの個人的な罪ではありませんでした。つまり、神がヨブに求めておられた人生の大切な使命に目を向けず、一方的に人生を終わりにして欲しいと願ってしまった自己中心の罪や、3人の友人たちが自分の罪の問題を脇に置いて、ヨブに罪の悔い改めを強要しようとした自己中心の罪を問いませんでした。神が問題にしたのは、7節と8節で2度強調しているように「お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかった」ことでした。つまり、神について正しく語らなかったことを問題にしたのです。別の言い方をすれば、神に正しく向き合わなかったことを問題にしたのです。人類の最大の問題とは、神に正しく向き合っていないことだと神は語り聞かせています。そして、神はお互いの関係性が損なわれつつある両者を礼拝の場へと導きます。この箇所を読むと、神はヨブだけに語ったのではなく、ヨブの3人の友人たちにも救いの道を語っていることに感動を覚えます。神はヨブの信仰の成長も、ヨブの3人の友人の信仰の成長も等しく願っておられるのです。礼拝とは、互いに欠けがあることを受け止めつつ、共に主の御前に遜り、互いに赦し合い、祈り合い、互いに不足を補い合いながら、主に罪をあがなわれ、永遠の御国の祝福へと導かれていることを賛美しつつ、共に福音宣教の使命に与って行くことだと示されます。
42:10 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。
42:11 兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った。
42:12 主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
42:13 彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、
42:14 長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。
42:15 ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。
42:16 ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。
42:17 ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。
>>>ヨブ記はハッピーエンドの中に、さりげなく男女が平等に扱われる神の国の希望を挿入しています。すべてが元通りどころか以前よりも良くなって終わりを迎えるように映るヨブ記ですが、果たして本当にそうでしょうか。ヨブにとって、前に失った子どもたちと僕たちの痛みは、生涯続いたのではないでしょうか。それでも神と友人たちの支えによって、消せない痛みに耐えて生き抜くことができたのではないでしょうか。また、ヨブと友人たちのその後の礼拝は、かつてよりも賛美と感謝と執り成しの祈りに溢れたものと変わって行ったのではないでしょうか。
*ヨブ記の登場人物とかけ離れている私たちの現実
・ヨブのように信心深く、中東一の大金持ちでもない私たち
・ヨブほどの悲劇を一度に経験することは人生において起こり得ないと思われる私たち
・私たちがヨブの妻の立場だったら、もっと精神的においつめられてしまうであろう私たち
・ヨブの友人たちのように7日間も友人に寄り添い、苦悩を共にするほどの忍耐力のない私たち
・エリフのように友の異常な試練を目の当たりにしても、神に再び友の目を向けさせるほどの知恵も言葉も勇気もない私たち
それでも、ヨブたちのように、さらに神を賛美し、神の御国を作り上げて行く真実の礼拝者として招かれていることを感謝したいと思います。また、主なる神が最終的な勝利を主イエス・キリストを通して勝ち取って下さっていることを心から共に感謝したいと思います。
*神はヨブの試練を通し、また友人たちの信仰の弱さを用いてお互いがさらなる信仰の高みへと成長できるように導かれました。そして、共に礼拝における必要不可欠な存在であることを示されました。
*青年時代の主イエスはヨブ記を読んで、未来の自分の役割についてきっと大きな示唆を与えられたことでしょう。
*ヨブ記は旧約聖書におけるもう一つの福音書ではないかとつくづく思わされました。みなさんはいかがだったでしょうか。
分かち合いのポイント
ヨブ記を通して新たに理解を深めたことについて自由に分かち合いましょう。