2016年9月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 9/25日 列王記下6章32-7章11節「サマリアの城門で」
総合テーマ 預言者の使命
予備知識…~今回の箇所までの概略
前回5章前半)アラムのナアマン将軍の重い皮膚病が癒される話。
5章後半)弟子のゲラジが偽ってナアマン将軍から貢物を受け取ったため、重い皮膚病が彼に移り、エリシャの元から退く結果を招く。
6章1-7節)一緒に生活していた預言者たちの提案により、住む場所を拡張するために木材を切りに出かけた際に池に落ちた仲間の鉄の斧を奇跡によって取り戻すエリシャ。
6章8-31節)アラム軍が度々攻めて来るが、エリシャの助言により助けられるイスラエル軍。ある時は、エリシャを捉えに攻めて来たアラム軍をイスラエルの王の元へ扇動し、彼らを捕虜にし、食事を振る舞って帰すという出来事さえ神の力によって起こす。また、ある時はちょうど大飢饉の時にアラム軍が攻めて来てサマリアを包囲し、さらに危機的な食糧難に陥る。そしてついにある女性たちが自分たちの子どもを食べるという事件まで起きる。それを聞いた王は預言者エリシャのせいにして彼を捉えて死刑にするように命じ、今回の箇所とつながる…
黙想のポイント
・この箇所の登場人物たちは全員ある種の弱さを持った人々です。長老たち、王の使者、王、重い皮膚病を負った人々。それぞれの弱さ(高齢、不信仰、無力、病気など)を黙想しましょう。人間というのは、状況によって人格が変わったり、それまで強かった者が弱くなったり、無力だった者が強くなったりすることがあります。今回の箇所には、容赦なく襲う飢餓と敵軍という二重の人生苦にあえぐイスラエルの民の姿が描かれています。その中で豊かに働かれる主の御業に目を留めましょう。
6:32 エリシャは自分の家に座り、長老たちも一緒に座っていた。王は彼に向けて人を遣わしたが、この使者が着く前に、彼は長老たちに言った。「分かりますか。あの人殺しはわたしの首をはねるために人を遣わしました。見よ、使者が来たら、戸を閉じ、戸のところでその人を押し返してください。その後に、彼の主君の足音が聞こえるではありませんか。」
>>>これまでエリシャの家に一緒にいたのは預言者仲間たちでした。それが32節では長老たちとなっています。彼らはなぜそこにいたのでしょうか?考えられることとして、宮殿にも十分な食料が無くなった状況で今、王様の元にいるとその分だけ王様の食料が減るという配慮から、自ら進んで何か解決策はないかとエリシャを尋ねて来たか可能性。あるいは、邪魔者扱いされて王の元を追われて、エリシャに助けを求めて来た可能性等、様々な理由が考えられます。食糧難の時、まっさきに邪魔者にされがちな高齢者の存在が、このような形で語られているのかも知れません。
6:33 エリシャがまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか。」
7:1 エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」
7:2 王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」
>>>今日の箇所の後で、エリシャが預言した通りになり、この侍従は食料を求めて殺到した大勢の民に踏み倒されて死ぬことになります。
7:3 城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。
7:4 町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」
>>>列王記には度々、人々に疎まれ、軽んじられ、軽蔑されるような人々を用いたり、彼らにエリシャを通して憐みを与えられる話しが登場します。ここに、すべての人を顧みられる神の人格が伺えます。
7:5 夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がったが、アラムの陣営の外れまで来たところ、そこにはだれもいなかった。
7:6 主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、
7:7 夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。
>>>神の御業によって敵は敗走し、イスラエル軍はアラム軍と戦うことなく勝利を治めることができました。しかも、アラム軍は天幕をはじめ、足手まといとなる食料などもすべてそのままにして逃げ去っていました。その恩恵に最初にあずかったのは重い皮膚病を患う者たちでした。誰も見向きもしない彼らに、神は目を向けておられました。彼らを「良き知らせ」=福音をイスラエルに伝える使者として用いられたのです。神はどんな人も有効に用いる力をお持ちです。そして、神はすべての人を有効に用いたいと願っておられるお方だと言うことが示されています。
7:8 重い皮膚病を患っている者たちは陣営の外れまで来て、一つの天幕に入り、飲み食いした後、銀、金、衣服を運び出して隠した。彼らはまた戻って来て他の天幕に入り、そこからも運び出して隠した。
7:9 彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」
7:10 彼らは行って町の門衛を呼び、こう伝えた。「わたしたちはアラムの陣営に行って来ましたが、そこにはだれもいませんでした。そこには人の声もなく、ただ馬やろばがつながれたままで、天幕もそのままでした。」
7:11 門衛たちは叫んで、この知らせを中の王家の人々に知らせた。
>>>主イエス・キリストが救い主としてベツレヘムの家畜小屋で人知れずに誕生した時に、当時最も軽んじられていた羊飼いたちが真っ先に「良き知らせ」=福音を知る者たちとされ、彼らが他の人々に福音を広めた話を思い出します。重い皮膚病の者たちがいなければ、もっと大勢の人々が餓死していたことでしょう。
神のご計画は私たちの常識を遙かに超えて素晴らしいことが、この箇所で語られています。イスラエルを襲う激しい飢餓から彼らを救うのが、イスラエルを襲う敵軍が敗走して残した食料になるとは、誰が予想できたでしょうか。
分かち合いのポイント
・自分たちの無力さを実感させられる一方で、神の側の圧倒的な備えを体験したことはあるでしょうか。あるいは自分など何の役にも立たないと思っていたが、神に不思議な仕方で用いられた体験はないでしょうか。ともに分かち合いましょう。