2016年8月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 8/27日 列王記上21章1-24節「神様から与えられたぶどう畑」
総合テーマ 預言者の使命
予備知識…~今回の箇所までの概略
前回)王妃イゼベルの脅しに恐れをなしたエリヤが神の導きの中でホレブの山までたどり着き、新たな使命を授かって行く。その一つは後継者エリシャに油を注ぐことであった。このエリシャが列王記下の主人公になって行く。続く20章ではアラムの王ベン・ハダドがサマリアに軍を進め、2度の戦いへと発展して行くが、2度とも預言者を通して神が予言した通りにイスラエルが勝利を治める。ただし、アハブ王は神の指示に忠実に従わず、敵の王を生かし、和睦を結んでしまう。そのため、預言者を通して神が敵の王ベン・ハダドに起きるはずのことがアハブ王の身に起きると預言する。
黙想のポイント
・罪は真に神を畏れ敬うことから人を遠ざけて行きます。イゼベルとアハブ王の数々の過ちから、自らを省みましょう。
ナボトのぶどう畑
21:1 これらの出来事の後のことである。イズレエルの人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていた。畑はサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。
21:2 アハブはナボトに話を持ちかけた。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。」
21:3 ナボトはアハブに、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言った。
21:4 アハブは、イズレエルの人ナボトが、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない」と言ったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった。
>>>ナボトが土地を譲れない理由として挙げたのは、それがもともと神の命令により、先祖から代々継承されて来た土地であるため、たとえ王の頼みと言えども決して手放すことはできないという内容でした。アハブ王もそのことを知らないはずがありません。そう言われては、なすすべがないと考え、一端は手を引いたものと思われます。イスラエルが多神教化していく中で、神の教えに忠実に生きようとしていたからでしょうか。ナボトのアハブ王に対する口調はどこか冷たささえ感じます。
一方、アハブ王にしてみれば、ナボトも喜び、互いに満足できる条件を提供したつもりだったことでしょう。しかし、あまりにあっさりと拒否され、どこか自尊心さえ傷ついたアハブ王だったことと思います。それにしても、物事が思うようにいかない時のアハブ王の態度は、だだをこねる子どもとどこか似ています。物事が思うようにいかないとすぐに態度に表し、周りの人にまで不快な思いにさせ、自分のために手間をかけて作られた食事も食べないというような態度は、多くの人にとっても身に覚えがあることではないでしょうか。
21:5 妻のイゼベルが来て、「どうしてそんなに御機嫌が悪く、食事もなさらないのですか」と尋ねると、
21:6 彼は妻に語った。「イズレエルの人ナボトに、彼のぶどう畑をわたしに銀で買い取らせるか、あるいは望むなら代わりの畑と取り替えさせるか、いずれにしても譲ってくれと申し入れたが、畑は譲れないと言うのだ。」
21:7 妻のイゼベルは王に言った。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」
>>>妻から不機嫌の理由を問いただされたアハブは、妻に正確には事態を説明しませんでした。イスラエルの土地の継承にまつわる神の掟を説明せず、ナボトが単に土地を譲る気がないかのように説明しています。そのため、イゼベルには王の態度は情けなく映ったことでしょう。
王妃イゼベルには神を恐れるということや、人の道に反する行いをすることへの畏れが感じられません。王としての権力を利用すれば、大抵のことは自分の思い通りにできると考えている人のように見受けます。結局イゼベルが画策したのは、偽りの証言者を立てて、ナボトを死刑にして亡き者にするというものでした。このような選択肢があると考えること自体、恐ろしいことです。
21:8 イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。
21:9 その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。
21:10 ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」
21:11 その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。
21:12 彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。
21:13 ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。
21:14 彼らはイゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。
>>>ナボトがイゼベルのたくらみ通りに死んだことが語られます。目的のものを手に入れるためには手段を選ばない権力者の姿はなんと醜く、残酷なことでしょうか。神を畏れることがない時、人の命も人権も非常に軽く扱われて行くことが伺えます。
21:15 イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに言った。「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」
21:16 アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。
>>>アハブ王はイゼベルからナボトが死んだと聞くや否や、なんの躊躇もなくナボトの土地を手に入れようと行動しました。自分の手を汚さずに、自分の身近な者たちに汚い仕事をさせて、平気な人と言うのはいつの時代にもいることを改めて思わされます。しかし、神はすべてをご存知でした。彼にはそれが見えていないのです。
21:17 そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。
21:18 「直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。
21:19 彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。』」
>>>エリヤを通して神は単刀直入にアハブの罪を明らかにします。強盗殺人に他ならないと!
21:20 アハブがエリヤに、「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか」と言うと、エリヤは答えた。「そうだ。あなたは自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねたからだ。
>>>アハブ王にとって敵とは何でしょうか。自分の罪を暴露する存在のようです。それはある意味では正しいと言えるでしょう。悪魔はまさにそのような存在だからです。私たちの罪を暴露し、辱めようとします。エリヤの答え「自分を売り渡して」とはまさにその悪魔に自分を売り渡したと言えるでしょう。それは同時に主なる神に対して罪を犯すことでもありました。
21:21 『見よ、わたしはあなたに災いをくだし、あなたの子孫を除き去る。イスラエルにおいてアハブに属する男子を、つながれている者も解き放たれている者もすべて絶ち滅ぼす。
21:22 わたしはあなたが招いた怒りのため、またイスラエルの人々に罪を犯させたため、あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家と同じように、またアヒヤの子バシャの家と同じようにする。』
21:23 主はイゼベルにもこう告げられる。『イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。
21:24 アハブに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる。』」
>>>罪を本当の意味で真に悔い改めず、そのままにするならば、その影響は自分だけに留まらないことが警告さています。
21:25 アハブのように、主の目に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼は、その妻イゼベルに唆されたのである。
21:26 彼は、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に仕え、甚だしく忌まわしいことを行った。
21:27 アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。
>>>今回の聖書箇所は24節までですが、25節から最後までも取り上げておきます。なぜなら、アハブが罪を心から悔い改めた時、神はアハブに憐れみを掛けられたからです。そこに希望があります。
21:28 そこで主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。
21:29 「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」
>>>一見、この箇所はアハブの罪のせいで子孫までもが神に呪われているように受け取れますが、そうではないと思います。聖書の他の箇所で原則として罪は本人の責任であり、犯した罪は本人が責任を負わなければならないと教えています。
この箇所はむしろ、神の慈悲深さに焦点を合わせた方が良いでしょう。たとえ偶像礼拝を含むすべての悪事に対してアハブが悔い改めなかったとしても、神はアハブの心からの悔い改めを即座に受け入れ、評価し、喜んでいます。私たちだったらどうでしょうか。一生アハブを赦せないかも知れません。しかし、神はどんな内容の事柄であったにしろ、罪人が心から神の御前に悔い改める時、それを受け入れて下さるということです。だからと言って、彼のすべての罪が赦されるわけではなく、彼が悪影響を及ぼして育ててきた子どもたちの犯す罪も赦されるわけではありません。ただ、神の本心はだれにも災いを及ぼしたくないと言う思いがここに表現されているのです。憐み深い神だからこそ、私たち人類の罪の問題をご自身で背負われたのです。主なる神の慈愛に感謝したいと思います。
分かち合いのポイント
・人を赦せない時がだれにでもあると思います。今回の話しの流れは、アハブ王がナボトを赦せなかったことから始まります。そして、それが強盗殺人へと発展してしまうのです。そんなアハブが心から悔い改めた時、瞬時に神の慈悲が現れます。罪を赦すことの大切さと難しさについて互いに分かち合いましょう。
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