2016年7月 祈祷会・教会学校 聖書箇所
7/31日 サムエル記下24章10-25節「取り戻されていくいのち」
総合テーマ 主なる神を畏れ敬う
予備知識…22~今回の箇所までの概略
前回)神が飢饉を通して悔い改めを導いておられることを知らされるダビデ。そして、ギブオン人たちの恨みとそのために子どもたちを殺されたサウル王の妻リツパの嘆きを通して、改めてサウル家の者たちを丁重に弔るように導かれたダビデ。
22~24)…ペリシテ人との戦いに足手まといになり出したために、戦に出ないように部下から言われるようになるダビデ。ダビデの戦勝感謝の歌。ダビデの勇士たちの名前などと続く。
黙想のポイント
・今回の箇所を理解していくためにはことの発端である1節から呼んでいく必要があります。一読してだれもが違和感を覚える今回の箇所。しかも、サムエル記の最後を飾る箇所にしては随分謎の多い箇所だと言えます。実に難解と思われる箇所ですが、あなたはどれだけこの最終章に隠された神の御心を読み解くことができるでしょうか。最後にふさわしい大切なメッセージが込められている箇所です。
今回の黙想のポイントは、やはりこれまでに培って来た想像の翼を広げることと、素直に聖書を読むと言う聖書の読み方が問われる箇所のようです。
◆ダビデの人口調査
24:1 主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。
>>>冒頭から具体的な説明もなしに主なる神を怒らせたイスラエルの何らかの罪が存在することが語られます。再びとあるのは、前回取り扱った21章の箇所のことだと考えられます。いったい何が問題なのでしょうか。神は問題の核心部分に導くためにダビデにイスラエルとユダの人口調査を命じました。
24:2 王は直属の軍の司令官ヨアブに命じた。「ダンからベエル・シェバに及ぶイスラエルの全部族の間を巡って民の数を調べよ。民の数を知りたい。」
>>>そこでダビデは軍の司令官ヨアブに民の人口調査をするように命じます。実は、すでにこの時点でダビデは大きな過ちを犯していると考えられるのですが、それは何でしょうか。
24:3 ヨアブは王に言った。「あなたの神、主がこの民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王御自身がそれを直接目にされますように。主君、王はなぜ、このようなことを望まれるのですか。」
>>>ヨアブは王の命令の真意がつかめなかったようです。ダビデ王が初めの頃よりどれだけ人口が増えたのかを知りたいのか、それとも国の兵力の現状を知りたいのか、それとも他の目的があるのか分からないでいます。そのために率直にダビデ王に目的を質問しています。これこそダビデが最初に神から命令された時になすべきことだったのではないでしょうか。ダビデ王が正しく神の命令を理解していないのに、部下に正しく命令を授けることができるはずがありませんし、部下が正しく協力できるはずがありません。
24:4 しかし、ヨアブと軍の長たちに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブと軍の長たちはダビデの前を辞し、イスラエルの民を数えるために出発した。
>>>せっかく部下を通してダビデが抱えていた問題が一つ示されたのにも関わらず、ダビデは続けざまにさらに欠点を暴露してしまいます。相手に有無を言わさず、自分と同じようにただ命令に従うようにと命じてしまいます。ダビデも恐らく神が人口調査をせよと命じられた時、神が普段とは違って怒っておられることを察したはずです。何かまた主なる神を怒らせるようなことをしてしまったに違いないと思うと同時に、その理由が分からずに焦ったことでしょう。しかし、彼はヨアブのように主なる神に質問するだけのへりくだった態度が取れなくなっていたのです。傲慢になり、自分の役割を忘れてしまっていたのです。神の民イスラエルの王とは、自分のしたいことを部下にさせる権利を与えられている者ではなく、国が神の意志に従うことができるように、常に神の意志を確認し、知らしめ、実行するように教え、導かなければならないという重要な役割を与えられていた存在だったはずです。
24:5 彼らはヨルダン川を渡って、アロエルとガドの谷間の町から始め、更にヤゼルを目指し、
24:6 ギレアドに入って、ヘト人の地カデシュに至り、ダン・ヤアンからシドンに回った。
24:7 彼らはティルスの要塞に入り、ヒビ人、カナン人の町をことごとく巡ってユダのネゲブの、ベエル・シェバに至った。
24:8 彼らは九か月と二十日をかけて全国を巡った後、エルサレムに帰還した。
24:9 ヨアブは調べた民の数を王に報告した。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。
>>>結局ヨアブたちが調べ上げて来たのは、彼らの仕事に一番関係していた国の兵力調査でした。しかし、神がダビデに命じたのは兵士の数という兵力調査ではなく、イスラエルとユダの全人口調査だったはずです。果たしてダビデは自分に与えられた神の任務を正しく実行に移したと言えるでしょうか。ダビデはヨアブに任せるならば勘違いがないように今回の任務は直接神から与えられた人口調査の命令だと説明すべきだったと考えられます。イスラエルは神の民として全世界に神の栄光を現すために選ばれた国であることを忘れてしまったゆえの見当違いの指示になってしまったと言えるのではないでしょうか。
24:10 民を数えたことはダビデの心に呵責となった。ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」
>>>報告を聞いたダビデは自分がしたことを後悔しています。しかし、後悔するも何もすべきことをしなかったことを後悔すべきだったのではないでしょうか。さらにはヨアブが告げた国の兵力130万人と言うのもどう考えたらいいのでしょうか。私は、これは明らかに多過ぎると思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。本来ダビデ王はその調査の数字の信憑性を疑うか、必要もないほどに膨れ上がっている兵力の現状を検討し直すように指示を出すことが求められていたのではないかと考えられます。このようにしてダビデは初めから、そして調査後も神に対して失敗を重ねているのです。だからこそ、11節で神からさらなる悔い改めを促す災いが示されたのではないでしょうか。
24:11 ダビデが朝起きると、神の言葉がダビデの預言者であり先見者であるガドに臨んでいた。
24:12 「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』と。」
24:13 ガドはダビデのもとに来て告げた。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三か月間敵に追われて逃げることか、三日間あなたの国に疫病が起こることか。よく考えて、わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」
>>>最初の飢饉は創世記のヨセフがエジプトの大臣だった時に起きた大干ばつを連想させる非常に厳しい干ばつを思い出させます。神はヨセフのように知恵を用いて神の僕として世界の人の役に立つ働きをすることを期待しての提案だったのかも知れません。二つ目の提案は、どんなに兵力があっても、真の平和や問題解決には至らず、神の祝福と守りこそが最大の平和の源だと言うことをもう一度ダビデに思い直させるための提案だったのかも知れません。三つ目は、もっと緊急課題である疫病や医療などのための人助けのために国の人員を再配備すべきではないかという提案だったのかも知れません。果たしてダビデ王は神の真意を理解したのでしょうか。神がいたずらに災いを与えられるお方ではないことを正しく理解すべきだったダビデでした。むしろ、起こり得るあらゆる世界の災いに対応して、国力が増したイスラエルに何ができるのかを真剣に考え、世界貢献のために最善を尽くす時期が到来していることを自覚すべきだったのではないでしょうか。
24:14 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」
>>>しかし、ダビデの判断はいかにも自己中心的なものでした。結果的に短期間に、大勢の民が死ぬ結果となりました。神の民の責任、またその民を率いる王の責任の重さが語られている箇所でもあります。私たちに置き換えるとどんなことが言えるのでしょうか。
24:15 主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされた。ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。
24:16 御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その手を下ろせ。」主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた。
>>>興味深いのは、イスラエルの王であるダビデの過ちが結果的に他の民族にまで害が及ぶことになっていることです。こうして神は多民族の方向にもダビデを無理やり用い始めるのです。
24:17 ダビデは、御使いが民を打つのを見て、主に言った。「御覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。」
>>>ダビデはここへ来てようやく自分の責任の大きさに気づき、悔い改めの言葉を口にします。こうまでしなければ悔い改めないからこそ、神はダビデに敢えて厳しい災いを与えられたことが分かります。そうでなければ、もっと悪い方向にそのまま進んで行ったことでしょう。
24:18 その日ガドが来て、ダビデに告げた。「エブス人アラウナの麦打ち場に上り、そこに主のための祭壇を築きなさい。」
>>>ガドを通して神が支持されたことは、エブス人の土地に祭壇を築きなさいというものでした。つまり、あなたは自国に留まらずに、世界に向けて神の祭壇=礼拝所を拡大しなさいとの福音宣教命令として受け止めることができます。始めから、これこそがイスラエルに神が与えておられた使命だったはずです。その使命を実行に移すようにとの神の今回の御業ではなかったでしょうか。
24:19 ダビデは主が命じられたガドの言葉に従い上って行った。
24:20 アラウナが見ると、王と家臣が彼の方に来るのが見えた。アラウナは出て行き、王の前で地にひれ伏して、
24:21 言った。「どのような理由で主君、王が僕のところにおいでになったのですか。」ダビデは言った。「お前の麦打ち場を譲ってもらいたい。主のために祭壇を築き、民から疫病を除きたい。」
24:22 アラウナは、「お受け取りください。主君、王の目に良いと映るままにいけにえをおささげください。御覧ください。焼き尽くしてささげる牛もおりますし、薪にする打穀機も、牛の軛もございます」と言って、
24:23 何もかも王に提供し、「あなたの神、主が王を喜ばれますように」と言った。
24:24 王はアラウナに言った。「いや、わたしは代価を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしの神、主にささげることはできない。」ダビデは麦打ち場と牛を銀五十シェケルで買い取り、
24:25 そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。
>>>ダビデがこのように神の指示に忠実に従った時に疫病はやんだとあります。世界宣教こそ、イスラエルの王であるダビデが次に担うべき大切な働きだったことが示されます。
分かち合いのポイント
・サムエル記は世界宣教へとイスラエルの民を神が導くところで終わります。それは同時に私たちにも向けられた課題です。私たちは神の使命を正しく受け止めて歩んでいるでしょうか。いつの間にかダビデのように本来の使命がぼやけたり、見失っている現実はないでしょうか。今日の世界の緊急課題に目を向けながら、共に世界宣教の課題について語り合い、教会として今後実行に移せる課題を話し合いましょう。