2016年5月11日 祈祷会・教会学校 聖書箇所
ヨハネの黙示録 19章5-10節「 預言の霊が証しすること 」
総合テーマ 天のエルサレム、天のエデンの園
黙想のポイント
・クリスチャンたちの信仰の忍耐と実践の先にある大いなる喜びを共に垣間見ましょう。そして、私たちにできる備えは何かを考え、分かち合いましょう。
◆小羊の婚宴
19:5 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」
>>>今回の箇所は、頻繁に神への賛美が呼びかけられています。ただこの箇所を頭で理解しようとするのではなく、この箇所に登場する者たちがどれほどの喜びと感謝を込めて賛美しているのか、同時に読み取っていくと良いでしょう。玉座から「神をたたえよ」との賛美の呼びかけがなされています。その対象者はすべての神の僕たち、神を畏れる者たちでした。
19:6 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。
>>>以前の箇所で確認しましたが、天使たちよりさらに多い、数えきれないほどのクリスチャンをヨハネは目撃しています。それら天使や人々が一斉に賛美すると、文字通り「多くの水のとどろきや、激しい雷のようなもの」になったということでしょう。彼らが声を合わせて神をほめたたえるのです。「ハレルヤ=神を賛美せよ!」という言葉と「全能者」そして主なる神が真に「王となられた」という言葉でした。聖書によれば、現在はまだ「この世の君」とも呼ばれるサタン=悪魔が存在し続けています。しかし、やがて神はそれに完全な終わりと裁きを計画に入れておられることが黙示録で明らかにされています。その時がついに来たことを意味する賛美の歌詞が神の御前にいる人々の口を通して語られています。
19:7 わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。
>>>ようやく訪れた、待ちに待った日が来た時に、神の御前にいる人々がどれだけ喜びに包まれるのかが表現されています。小羊の婚礼で譬えられる天の御国における喜びの宴が待ちきれない様子が伺えます。
19:8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」
21章2節には「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」とあります。このことを言っているのでしょうか。それを着飾った麻の衣と表現し、また聖なる者たちの正しい行いだと言います。とても不思議な表現です。ただはっきりしていることは、これが婚宴のようなものだということです。婚宴とは結婚生活を共にする前に夫婦と招待された関係者が一緒に行う喜びの宴です。正真正銘、神が用意されている天国にクリスチャンたちが導き入れられる時が到来しているということです。それが喜びであり、待ちきれないために神の栄光をたたえながら待ちわびている人々の姿が語られています。
19:9 それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
>>>この小羊の婚宴に招かれ、出席することこそ、私たちの地上での最大の使命であり、目標であることが語られています。「これは、神の真実の言葉である」と念が押されています。必ずやがてこのような時が来るという約束であり、神ご自身がどれほどこの時が来るのを待っておられるかということであり、私たちにどうしてもこの招待客の中に名を連ねてほしいかということでもあります。これを正しく受け止め、そのために今、私たちにできる備えは何か、真剣に考えたいものです。
19:10 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。
>>>これらの天の光景を見せられて、ヨハネは思わず天使を拝もうとしてしまいました。それほどの威厳が天使にはあったということでしょう。しかし、天の御国においては、より一層三位一体の神だけが礼拝される場であり、一切の偶像礼拝が取り払われた場所だということが語られます。まず、私たちのこの世における偶像礼拝を完全に取り除く者でありたいと思わされます。ただし、そのために10節では大切なことが示唆されています。「あなたの兄弟たちと共に」ということです。私たちが偶像礼拝から離れ、真実の礼拝を捧げていくために一緒に力を合わせ、協力することができる教会の兄弟姉妹たちが私たちには与えられているのであり、自分一人の力や努力だけで真実の礼拝を捧げて行きなさいとは語られていません。
また、それに続く「イエスの証しは預言の霊なのだ」という言葉も同様に大事だと示されます。神に仕え、神に礼拝を捧げることと同様に私たちにとって今の時代、極めて重要なのはイエス・キリストを証しすることです。クリスチャンは協力して教会を形成し、奉仕し、礼拝を捧げることや人々を教会へ誘うことはもちろんのこと、もう一つ重要な使命を果たしていく必要があることが示されます。それは預言の霊、つまり聖霊に導かれながらイエス・キリストについて自分の口を通して人々に伝道することです。私たち一人一人が救い主イエス・キリストを知らない人々にイエスについて直接証しすることです。ただ、教会に人々をお誘いしたり、教会で礼拝奉仕をするぐらいではこの世の人々から嫌われたり、迫害を受けたりはしません。殉教者が出るのは大抵「このままでは、私たちは天国ではなく、地獄に行かなければならないこと。しかしイエス・キリストが世界を創造された神の御子であり、私たちが罪をあがなわれ、悔い改めて神に立ち返るために十字架に架かってあがないの死を遂げられたこと、そして三日目に復活されたこと、そして今や聖霊を通して私たちを正しい信仰と生き方に導くことがおできになる救い主だということを語り、この主イエスを救い主と信じ、バプテスマを受け、教会の一員となり、その教えに真実に従う時、神が用意されている天国に確実に行くことができるようになるばかりでなく、この世に生を受けた私たちの神から与えられている使命をキリストの弟子として正しく全うすることができる」と人々にイエスの証しをする時に、私たちは他の人から自分の信仰に干渉しないで欲しいと迷惑がられたり、様々な形でその後、迫害を受けるのです。
この世でクリスチャン、つまりキリストの弟子として真実にキリストに仕え、イエスの証しをしながら生きていくことは必ずしも楽なことではありません。
ヨハネ福音書16章33節 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ローマの信徒への手紙8章より最後に引用します。
◆神の愛
8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。