2016年10月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 10/30日 エゼキエル書43章1-9節「帰って来た主の栄光」
総合テーマ 神の臨在を悟る
黙想のポイント
・40章から終章まで神が将来に用意しておられる、新しいエルサレムとその神殿を見ることが赦されます。この幻は果たして近未来の主イエスの時代に再建されているエルサレムなのか、それとも私たちがいる現代のさらに未来に実現する新しいエルサレムなのか、それとも黙示録が指し示している新しい天のエルサレムを指すのでしょうか。心を柔軟にして、神が信じて従う者たちに約束しておられる新しい礼拝環境を黙想しましょう。
・今回の聖書教育誌の内容も充実しています。是非そちらも合わせてご覧下さい。もともと、ここでは敢えて聖書教育誌で触れる内容(歴史的な背景や神学的な考察)は重複しないように、出来る限り省略しています。聖書教育誌が取り上げている箇所の理解をさらに深め、また違う視点からも御言葉に聞くために用いていただければ幸いです。
◆主の顕現
43:1 それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた。
>>>40章からエゼキエルは神が用意されている新しいエルサレムの神殿の幻を見せられます。その時に東の門を通って神殿の中に入っています。今回も再びその東の門に連れて来られます。
43:2 見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。
>>>興味深い表現ではないでしょうか。「神」が到来しつつあるのではなく、その「栄光」が到来しつつあると言うのです。それは大水のとどろきを思わせる音による近づきと、大地全体が輝くほどのスケールが桁違いに大きい神の栄光だったことが表現されています。
43:3 わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。
>>>エゼキエルは圧倒的な神の臨在の前にひれ伏します。この動作こそ、今回注目したい肝心な部分です。
ここには神が近づいて来ることを喜ぶ余裕などありません。神の御前で礼拝するにはあまりにふさわしくない、罪多き存在である者が場違いな場所に居合わせていると言う畏れをエゼキエルは感じて、ひれ伏さざるを得なかったのではないでしょうか。これこそ、礼拝前に神の御前に参列させていただく者のあるべき姿勢なのかも知れません。
43:4 主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。
>>>ついに主の栄光が神殿の中に到達します。また、別の受け止め方をすれば、エゼキエルが心から神の御前にひれ伏したので、神の栄光が神殿の中(礼拝する場所)に臨在されたと言う見方もできるでしょう。
43:5 霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。
>>>主なる神の栄光が神殿の隅々を満たすこと。これが非常に重要なことであると聖書は強調しています。神殿には神の栄光を遮るような障害物があってはならないのです。
43:6 わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人がわたしの傍らに立っていた。
>>>「かの人」あるいは「彼」で表現されるエゼキエルの傍らに立つ存在は、主イエス・キリストを指し示す存在だと考えられます。
43:7 彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。
>>>本来、礼拝の場所は神をお迎えし、神に集中して礼拝するために隅々まで整えられているべき場所でした。それがソロモン王の時代以降、神殿のすぐ横に王たちのための墓が設けられ、神以外の者を偲び、記念する場所になって行ったことが語られています。そして、それを神がどれほど悲しまれていたかが語られています。
43:8 彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。
>>>イスラエルの民は、神殿と隣り合わせに王族のための墓だけではなく、王がめとった異教の神を信仰する王妃たちのための偶像も設置して礼拝をさせていたことも語られています。それがどれほど神の怒りを飼っていたかが語られています。
43:9 今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む。
>>>神の神殿にこれらのようなものを建てていいはずがありませんでした。神殿にふさわしくないものを取り入れていたイスラエルの民の罪が指摘されています。そして、それを悔い改め、徹底的に排除すべきことが語られます。それこそ神が戻ってこられ、栄光を現して下さるのに必要不可欠だということを、民に語るようにエゼキエルは知らされるのです。冒頭に「今」と表現されています。今日の私たちにも問われる言葉です。たとえ、どんなにイスラエルの民が真の礼拝にふさわしくない過去や現在の状態があったとしても、神はイスラエルの民に真の礼拝を回復して下さろうとしていることが語られています。そして、それは私たちにも向けられている福音ではないでしょうか。
◆分かち合いのポイント
神殿とは隅々まで主の栄光が行き渡るべき場所だとエゼキエルは示されました。そして神を礼拝する者の姿勢とそれにふさわしい礼拝堂について考えさせられます。
現代に生きる私たちの教会にも真の礼拝に相応しくないものはないでしょうか。また、私たちが再考すべき礼拝の在り方はないでしょうか。自由に分かち合いましょう。