マルコによる福音書6:45-52
先週は「五千人に食べ物を与える」(6:30−44)という主イエスの奇跡の記事を学んだ。そのところにおいて、主イエスの御言葉が「命のパン」をあらわすものとして、尽きることなく大勢に分け与えられたという「奇跡」があらわされた。「奇跡」とは「出来事を通して神のみわざを指し示す」ものであり、何よりそこで「御言葉が語りかけられること」が重要である主イエスの出来事を通して神が御言葉を語り、出会った一人一人を捉え、その人の内に働いて救いとなり生きる希望を与える。これこそが「奇跡」である。御言葉の語られるところでは「信仰」が求められるが、御言葉が信仰をもって「聴かれる」ところではそこに救いと平安が与えられる。これこそ「奇跡」である。「奇跡」について考える時、不思議な出来事それ自体(パンが増える、病気が治る、・・・)のみに目を留めるならば、その本来の意味を捉え損なうことになる。
主イエスは給食の奇跡の後すぐに「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」た(45節)。弟子たちは主イエスのもとで御言葉を聴き、「イエスこそキリスト」という信仰を頂いてそれを配る者として、主イエスに強いられて世に出て行く。それは、我々が礼拝において主イエスを通して御言葉を頂き、いま一度「わたしは主なる神のものである」という信仰、すなわち「命のパン」を頂いて世に遣わされるのと同様である。
聖書の世界において「海」「湖」とは「この世」「人生」を表わしている。当時の「海」「湖」は何が起こるか予測しえない場であった。突風が吹き荒れ、逆風に舟が漕ぎ悩むこともある。夜の暗闇の中で舟が途方に暮れることもある。同様に、人生においても何が起こるか分からない。我々が礼拝からそれぞれの人生に遣わされて行く時も、そこで思い通りに行くときばかりではなく、やはり逆風に漕ぎ悩むときもある。しかし、それでも我々は主イエスにより「強いて舟に乗せ」られ、世に遣わされていく。
そして主イエスは「群衆を解散させられ」(45節)、「祈るために山へ行かれた」(46節)。主イエスは地上のご生涯において「祈りの時」を大切にされた。群衆の中で御言葉を語り、みわざを為し、多忙な日々であればこそ父なる神と共なる祈りの時を大切に過ごされたのである。弟子たちを乗せた舟は湖の真ん中にまで出ていたが、逆風に遭いそこで漕ぎ悩んでいた。その時、主イエスは「陸地におられ」(47節)、弟子たちを「見て」(48節)おられた。我々が世に遣わされている間も、主イエスは天において我々の歩みをご覧になり、我々のために執り成し祈っておられるのである。主イエスは十字架で死なれ、復活し、天に昇られた。そのため、その姿を今は見ることができない。しかし、我々の目には見えない神の領域、「天」において我々を見つめ、祈り、共にいてくださっている。
主イエスは湖の真ん中で漕ぎ悩む弟子たちを、ただ「見て」おられただけではない。「夜が明けるころ」(48節)弟子たちに近づいて行かれたのである。苦しみの時に主イエスが近づいてくださるのは「今すぐ」ではないかも知れない。しかし、主イエスの近づいてくださる「時」がある。主イエスは「湖を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(48節)。「通り過ぎる」とは、「近付く」「臨在する」という意味である。
しかし弟子たちは「イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」(49節)。彼らはもはや「パンの奇跡」によって表わされた主イエスのみわざを忘れ、今、自分たちに襲い掛かる暗闇と風と波に目を奪われていた。「幽霊」とは「幻」を原義とするが、弟子たちは主イエスが近づいて来られているのにそれに気付くことができず、その姿を「幻」としか認識できなかった。「皆はイエスを見ておびえたのである」(50節)。
怖じ惑い、不安に陥る弟子たちに対して、主イエスはすぐに語りかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)。弟子たちの心にその御言葉が入って来たとき、彼らは恐れや不安から解き放たれた。御言葉により弟子たちの心の嵐が止んだ、これこそ「奇跡」である。
礼拝において御言葉を頂き、「わたしが共にいる」「わたしこそ、あなたの主である」という主イエスの語りかけを頂いて世に遣わされる我々も、やはり弟子たちと同じように、人生の航路において漕ぎ悩み、この世の逆風にのみ目を奪われ、不安に陥る弱い者である。しかし主イエスはそのような我々を見守り、祈って執り成し、「良い」と思われた夜明けの時に近づいて御言葉を語り、心の中に入って来てくださる。この「奇跡」は湖の上の弟子たちにこの時だけ起こったものではない。今も生きておられる主イエスは、今も御言葉をもって我々の内に臨み、我々を励まし、新たに生かしてくださる。そのような「奇跡」は今もなお我々に与えられている。目に見えるものよりはるかに確かな愛の方として、今日も主イエスは我々と共にいてくださるのである。