マルコによる福音書4:13-20
本日の箇所は、先日の「種まきの譬え」の説明部分である。主イエスの語られる譬えは「神の国の福音」、神の真実の支配が近付いたというメッセージを語る。主イエスはそれを通して、「悔い改めて」、すなわち「神の方に向きを変えて」福音を信じるようにと促す。主イエスが既に来たり給い働いておられることが、既に「神の国が到来している」ことの徴である。そしてその事を示すため、同時に譬えで語られた。しかし人々はそれをすぐには理解できなかった。譬えは語らんとする事柄の本質を分かりやすく示すものではなく、聞いた者はそれを、福音に出会った後に理解するようになる。譬えの本質は、ある意味「隠された」一面を持っていると言える。
「種」は「神の言葉」であり、主イエスご自身がそれを蒔いている(14節)。当時の農夫たちはミレーの名画「農夫たち」に見られるように、大きな籠に種をたくさん入れて空に向けて蒔く。今も主イエスは教会を通してみ言葉を語っておられる。 その「神の国の福音」という種が蒔かれると、色々な土地に落ちるということは自然なことである。
そのようにして蒔かれた「神の国の福音」「神の救いと真実」の種は、聴く側・受け入れる側の状態によって芽を出したり出さなかったりする。「道端」(15節)とは、人の足や車輪で踏み固められた道路のような地である。そのような地は、落ちてきた種を受け入れない。自分の考え方や先入観がまずあり、「宗教とはこのようなものだ」と思う人がいる。とりわけオウム真理教の事件以来、日本社会は「宗教」というものを警戒するようになったと言える。キリスト教も「恐ろしい宗教」と受け取られる可能性がある。福音を語っても、最初から受け付けないという人がいることは確かである。
「石だらけの所」(16節)とはどのような地であろうか。そのような人は、御言葉を聴き、喜んですぐに受け入れる。しかし、自分の意に沿わないことが起きるとすぐに躓き、教会生活や信仰を離れてしまう。主イエスの言葉は、常にこちらの応答を求めるものである。御言葉を自分で信じ、従う応答が求められる。「信仰」とは、聖書の言葉を聴いて「立派な言葉だ」「清らかな気分になった」と満足することではない。「信仰」とは「聴いて」、自分で意志的に「信じて」「従う」ことなのである。そのような「信仰」を与えられた者は、神への意志的な応答として、「神を信じ従う」と告白して「バプテスマ」を受ける。そのような意志がなければ、たとえキリスト者になったとしてもその信仰生活は長続きしない。信仰は感情で受け入れるものではなく、意志により受け入れるものなのである。
「茨の中」(18節)の地とは、「聴いて信仰を言い表す人」ではある。しかし、常に世の社会に生きていく限り誰にでもある「思い煩い」がその心の多くを占めていくのである。また、「富の誘惑」もある。人は神と富とに兼ね仕えることはできない。その時、「茨の地」の人は本当に頼れるものとして「富」を選び、「富」を「神」としてしまう。「富」が必要ないというのではない。ただ、「富」「金」はあくまでも「手段」であり、それをどう使うかということにその人の価値観や信仰が表れるものである。信仰生活には「優先順位」が必要になる。神の言葉を聴くこと、すなわち共同の礼拝、個人のデボーションのために自分の時間をささげることを最優先し、大切にすることが求められる。「御言葉を聴いて」「従う」ことが「信仰」だからである。
それでは「良い土地」(20節)に種が蒔かれるとどのようになるか。み言葉を受け入れた者には「実」が結ばれる。それは「神の国に生かされること」「神の真実の支配の中で神を喜ぶ者にされること」である。主イエスは、我々の内に「新しい人間」を創造し、「信仰」「希望」「愛」という実をご自身の手で実らせてくださろうとする。「信仰」はまさに神が与えてくださるものである。そして我々自身は「愛」の貧しい者であり、他者を憎み、恨み、蹴落とそうとする。それにもかかわらず、主イエスは我々を「愛」のために労苦する人間に造りかえてくださるのである。また「希望」は、自らの眼前にある状況がどんなに今は暗いように思えても主イエスが最善の道に導いて下さり、神の御業は必ず完成する時が来るのだという「希望」である。我々自身は、自分自身で「良い土地」になることも、「実」を結ぶこともできない。しかし、御言葉を聴き続けていくとき、主イエスは我々を「良い地」として耕し、そこにご自身の望まれる「実」を結んでくださるのである。
しかし我々は生来、御言葉に対して応答できず、信じ受け入れても困難があれば信仰を離れてしまう。この世の事柄に引きずられ優先順位を譲ってしまうこともある。最初から「良い地」である者はいない。しかし、主イエスは我々が神の国に生きるように、心を耕し、「良い地」として造りかえてくださる。主イエスはこの譬えにおいても「あなたは良い地でありなさい」とはおっしゃらない。そうではなく、主イエスが我々を「良い地」に耕し造りかえてくださるとおっしゃるのである。我々はそのような御言葉を聴き続けていくことを喜ぶ存在でありたい。
一方、この譬えの中で「種を蒔く人」とは、「御言葉に仕えるキリスト者」であるとも言える。御言葉を持ち運び「種蒔き」の働きに仕える我々にも、同じ信仰が必要である。すなわち、「土地」を良いものに耕し、そこに実を結ぼうと願われるのは主イエスなのであるから、御言葉をいくら語っても受け入れてくれない人に対して「あの人は石地だから」と決めつけるような思いを抱くことはできない。変えて下さる方がおられることを信じ、希望をもって「種蒔き」のわざに仕えたい。