マルコによる福音書 4:21-25
主イエスはそのご生涯において「神の国」「天国」の事柄を、この地上の事柄を用いて語られた。その主旨は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)ということに尽きる。「悔い改めて」、すなわち「あなたの心の向きを変えて信じなさい」と主イエスは語られた。そのメッセージは、他の人が語ることのできない独自性を有する。なぜならそれは主イエス以外に語ることのできない内容だからである。まことの神を知る唯一の存在である主イエスにしか、まことの「神の国」のメッセージは語れないのである。
一方、主イエスの語る「神の国」のメッセージは、聴く者にとってすぐに理解できるものではない。主イエスの語られることが「生き方の教訓」であるなら、「人生とはこのようなものだ」という「思想」「哲学」「悟り」であるなら、聴く者はすぐに理解し共感できるかも知れない。しかし、主イエスは「神」のこと、「神がどのような方であるか」ということを語られる。しかも 人間の側で抱いている「神とはこのような存在だ」という先入観を打ち砕く。我々は「神の国」の事柄を理性で納得することはできないのである。
「神の国」は、ただ主イエスの全存在を通してのみあらわれされる。主イエスの語られたこと、教えられたこと、地上のご生涯において為されたこと、人々への接し方、それらを通してのみ、「神の国」があらわされる。主イエスの「十字架」と「復活」がその極みである。
それでは「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」(4:21)という言葉は何を示すのであろうか。このところは、「この世界の光、灯」である「主イエスの到来」を表現している。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネによる福音書1:9、口語訳)、その主イエスは部屋中を照らし出す灯のように、この世を輝かせる。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(4:22)とあるように、主イエスご自身ならびに主イエスの到来によって示された「神の国」は、我々にあらわにされるべきものなのである。主イエスは決してただ「隠す」ために、「神の国」の譬えを語られたのではなかった。なんとか福音とご自身の光を輝かせたいと願われ、主イエスはこの譬えを語られたのである。
主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:23)と言われた。「聞く」とは、「福音にあらわされた神の恵み」「今や到来した神の愛、無条件の恵み」を受け入れることである。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書8:12)と主イエスは言われた。福音を正しく聞く者は、「命の光」を持つ。人生には様々な暗闇があるが、それは永遠に続くものではない。福音を受け入れ「命の光」を頂く者は絶えず神の愛の中に置かれ、暗闇の中で輝く光の中で歩き続けるのである。「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言われた主イエスは、決して「あなたがたは世の光になりなさい」と倫理的命令をされない。主イエスの福音を受け入れ従う者たちは既に、主イエスの光に照らされて輝く「世の光」として生きているからである。
続けて主イエスは「何を聞いているかに注意しなさい」(4:24前半)と言われた。我々は「福音」を聞いているのであり、「教訓」「哲学」「倫理」を聞いているのではない。そのことに注意するべきである。なお、ルカの並行記事においては「どう聞くべきかに注意しなさい」(ルカ8:17)と記されている。ここには、「信仰を持って聞きなさい」というニュアンスが込められている。主イエスを通してあらわされた神の愛を、全幅の信頼をもって受け入れるようにと我々は招かれているのである。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(4:24後半)とは、大きな信頼を持って神の恵みを受け入れる者が、大きく注がれている神の恵みにますます与り、命の光の中に突き進み、豊かになることができるということを示している。信仰を持って福音を聞き、受け入れるとき、そこに神の愛と恵みがますます豊かに増し加わるという約束の言葉である。「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(4:25)とあるが、人が福音を聞こうとせず、受け取ろうとしない時には、恵みが恵みとして働かないということを指している。主イエスは、ご自身の「世の光」がすべての人々の中に輝いて欲しいと願われ、これらの譬えを語られたのである。