マルコによる福音書4:2
今回は「主イエスの語られた譬え話」を取り上げる。主イエスは福音のメッセージを「譬え話」を用いて感銘深く語られた。それらの「譬え話」は、主イエスご自身の到来により新しくもたらされた「神の国」を指し示すものであるが、強調点に注目することにより幾つかに分類することが可能である。
1.救いの出現
主イエスがこの世界に来られたことにより、「救い」が始まった。旧約聖書の預言者によって語られ約束されてきたことの成就としての「神の国」が始まっていることを、主イエスは「譬え話」を用いて語られたのである。
バプテスマのヨハネは投獄された折、弟子たちを通して「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と主イエスに問うた。主イエスは起こっている様々の事柄をヨハネに伝えるようにと返答された(マタイ11:2-6ほか)。主イエスはイザヤ書35:5以下で語られている「救い」の成就を体現する方であり、主イエスこそが「約束された救い」なのである。ヘロデにより投獄されていたヨハネのように悲惨な状況におかれながらもなお、「救いが主イエスにあって既に来ている」ということを信じる者は幸いである。
また主イエスは「婚宴の譬え」(マタイ22:1-14、ルカ12:35−40ほか)、「収穫の譬え」(ヨハネ4:31−38ほか)も多く語られた。こうした譬えは信仰者に対してのみ明らかにされたイエス証言であり、信じない部外者には隠された意味を持つ(マルコ4:10−12)。「わたしによって救いが始まっているのだ」というメッセージは、主イエスを信じようとしない者には隠されているのである。 神の救いの恵みを信じる者たちもまた罪深く、何の資格も持たない者たちであるが、恵みにあずかり「神の国」の秘密を知ることをゆるされ、隠され目立たない「神の国」の栄光を既に見ている。主イエスのメッセージは「神の国は近付いた」「神の国は既に始まっている」「神の国は終わりの日に成就する」という強い確信に満ちている。
2.罪人に対する神の愛と憐れみ
主イエスは譬え話を用いることにより、「神の約束された救いがメシアの到来により始まっている」と語ると同時に、その救いが実は「貧しい人や罪人のところにあらわされている」ということを示された。主イエスは「罪びとの救い主」として来られた。当時のユダヤ社会において徴税人や遊女のように「罪びと」と言われているような人たちに対して神の憐れみがあらわされたというのである。自らを「敬虔」と思う多くの者たちはそのような神の愛を理解できなかった。「ふたりの負債者の譬え」(ルカ8:41-42)においては、多く借りたほうが多く免除されている。その感謝と喜びを自覚する者だけが「神の国」の到来を知ることができる。
また、「放蕩息子の譬え」(ルカ15:11−32)は、「神はどのような方であるか」を示している。神は罪を犯した者を全く赦すほどに恵み深く憐れみに満ちている。神は、失われた者が自分のもとに帰ってくることを「祝宴を催す父親」のように喜ばれる。無限の愛を与えようとする神の御心にふさわしく行動しているのが主イエスである。主イエスはその生き方、わざを通して神の深い憐れみを示され、まさにご自身の行動により、悔い改める罪びとへの愛を示して下さった。
神の愛と憐れみは「ぶどう園の労働者の譬え」(マタイ20:1-16)においても示されている。朝一番から働き始めた者も、夕方になってから働き始めた者も、誰もが一日分の賃金を受け取った。一日分の賃金を受け取るのに値しない者たちでさえもそのように取り扱われたのは、まさにぶどう園の主人の恵み以外に拠るところはない。神は罪びとをご自分のもとに迎え、「終わりの日」にこのように取り扱って下さるであろう。これは「終末」が前提とされた譬えである。
「からし種とパン種の譬え」(マタイ13:31−33ほか)もまた、神の憐れみのわざを示す。それは、最初は小さな群れの中にしか示されない、隠されたわざである。しかし、やがて終わりの日には全く大きな事柄として完成するという主旨である。「神の国」は、今は多くの人たちに隠され、見栄えのするものではない。しかし、最後には目を見張るような、驚くような有様で示される。
「種を蒔く人の譬え」(マルコ4:1−9ほか)は「終わりの日の神の国」という視点から語られている。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(ルカ4:8)という表現は、「終わりの日における神の救いの成就」を暗示している。「福音の種」は確かにいくら蒔いても、何かに奪われてしまい、いろいろな社会的状況の中でその働きが失敗に次ぐ失敗、あるいは徒労のように思えてしまうかも知れない。しかしそれは必ず終わりの日に「救い」という明白な形であらわされるという主イエスの喜びと確信が、この譬え話から聞こえてくる。終わりの日には、今まで見えなかった「収穫」がもたらされる。「福音の種」を蒔いても奪われたり失ったり不利な状況の中で失望させられるが、必ず「豊かな収穫」として「神の国の救い」が与えられるのである。
3.「神の国」への招き
主イエスの譬え話には「悔い改め」を求めるものが多い。主イエスのメッセージは「既に神の国が到来した」という告知だけではなく、「神の国に向かって悔い改めよ」という、「終わりの日の審判」に結び付く呼びかけを色濃く帯びている。
「愚かな金持ちの譬え」(ルカ12:13−21)、「十人のおとめの譬え」(マタイ25:1-13)がこの事柄を指し示している。「十人のおとめの譬え」における「花婿の到来」は「さばきの到来」であり、そこに「分離」が生ずる。主イエスが「神の国」について語られる際、同時に「終わりの日」「さばき」についても示されることが多い。しかし、それは徒に我々を恐れさせるものではない。むしろそこにある「あなたがたを神の国に迎えるための全ての用意が調った」という喜びの響きを聴き逃してはならない。
4.弟子となる者の喜び
主イエスは譬え話を用い、「神の国を見出すことをゆるされた者だけが知る喜びと生き方」をも示された。「畑の中に隠された宝、高価な真珠の譬え」(マタイ13:44−46)は、「神の国の救いに比べたら、他のものは色褪せて見える」ということを教えている。キリスト者の全生活は、主イエスに従って御国へと向かう歩みである。主イエスの働きにあずかるため、キリスト者は全身全霊を献げる者とされる。
「空の鳥と野の花の譬え」(マタイ6:25-34ほか)は、「共にいてくださり、配慮してくださっている神がおられる」という、神の国にあずかる者の喜びを伝える。「良い羊飼いの譬え」(ヨハネ10:7-18)も、一人ひとりを顧み祈ってくださる神がおられることを示す。