マルコによる福音書3:31-35
主イエスは30歳の頃、ナザレの実家を出てイスラエルの津々浦々を歩き回る伝道者としての生涯にお入りになったと考えられている。「マルコによる福音書」6章には、主イエスが故郷ナザレにお帰りになった折のエピソードが収録されている。安息日に会堂で教えられた主イエスの言葉を聞き、多くの人々は驚き、「つまずいた」(6:3)という。人々は言った。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(6:3)。ここには父ヨセフの名が出てこないが、彼は恐らく大工であり、比較的早い時期に亡くなったのであろう。主イエスはその後、一家の長男として家業を継ぎ、一家の大黒柱として働いていたと推察される。そして、弟妹たちもある程度成長した頃、実家を出ていわゆる「公生涯」を歩み始められた。方々を歩き回りながら主イエスが宣べ伝えた福音を一言で言い表すならば、「時は満ち、神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)ということである。そして「福音」の内実とは、「全てを赦し包んで下さる神の愛と恵み」である。直前のベルゼブル論争においても、主イエスは「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」(3:28)とお話しになった。神の恵みは全ての人に及び、「神の国」すなわち「神の恵みの支配」はここに既に始まっている。だから信じて恵みを受けなさい、方向転換をし、神のみもとに近づいて、大きな恵みを受けなさい、そのように主イエスは人々に語りかけられた。このように主イエスが語られた「福音」は、主イエスの十字架における苦しみと死とを通してあらわされた恵みであり、主イエスがご自身の命を懸けたメッセージなのである。
しかし、当時の宗教的な権威者たちは、この「福音」に「つまずいた」。彼らにしてみれば、律法の規定をことごとく行い、努力した者だけが神の赦しを受けるはずである。それにもかかわらず「神の恵みは全ての人に及ぶ」などととんでもないことを語る主イエスは気が狂っているとしか思えない存在であり、非難の対象であった。ある律法学者たちはわざわざエルサレムから下って来て(3:22)主イエスの教えや振る舞いを観察せずにおれなかった。それほどまでに主イエスの教えとわざは広く受け入れられ、その影響力は日ごとに増していたのである。「このような教えを語るイエスという男を放っておいては、律法によって秩序が保たれているユダヤ社会を乱す」という危機感を、律法学者たちは抱かずにおれなかった。
マリアの子である「ヤコブ」は、後に使徒ペトロの後継者としてエルサレム教会を指導した人物である。当時、パウロが異邦人伝道を開始し「誰でも主イエスを信じて受け入れる者は義とされ赦される」と説いたが、「律法」を重視しようとした人々はキリスト者になってもなお、そのようなメッセージを受容することができなかった。もちろん、律法を下さった神の求める愛と正義に基づいて生きることは大切なことである。しかし、ファリサイ派の人々が求めた「律法を守る」という在り方には枝葉の部分だけが多く、そのような律法の捉え方を主イエスが乗り越えてくださったはずであった。それでもなお、「律法主義」を完全に乗り越えられない人々がおり、初期の教会の中にもそのような軋轢が生じていた(cf. 使徒21:17−26、ガラテヤ2:11-14、など)。このヤコブもそのような一人であり、キリスト者になる以前は律法遵守ということに関して厳格なグループに属していたのではないかと考えられる。そうであるからこそ、「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)という兄の評判を、弟ヤコブは激しく気に病み、兄を取り押さえに走ったのかも知れない。
本日の箇所の場面においては、主イエスの弟たちだけではなく母マリアも登場している。彼らは「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(3:31)。それに対する「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(3:33)という主イエスの言葉は、一見冷淡な、家族を拒否するようなニュアンスをうかがわせる。しかし、主イエスは母や兄弟たちの存在そのものを拒否されたのではなく、肉親の情でご自身の働きを押しとどめ縛ろうとする行いを拒否されたのである。主イエスは神から与えられた、推し進めるべき大切な働きを遂行されようと願われたのにもかかわらず、それを阻む肉親の思いと行いを悲しまれた。同時に主イエスはそのご生涯の中で母に対する配慮を示され、母も兄弟たちも信仰に導かれて初代教会のメンバーに加わっていったことを聖書は証言している。
主イエスの言われる「神の御心を行う人」(3:35)とはどのような人のことであろうか。「ルカによる福音書」はこの部分の並行記事の中で「神の言葉を聞いて行う人たち」(ルカ8:21)と記している。我々はまず、「行う」ために主イエスから「聞く」ことを大切にするのである。何事かを「行うか、行わないか」によって「神の恵みが頂けるか、頂けないか」という視点ではなく、キリスト者は「神の恵みの中におかれている者は、聞いて従う」という視点からこのところを読む。主イエスの言葉に聞いて従う群れの中に、既に「神の恵みの支配」が始まっている。主イエスとの交わりは神の恵みの光の中に置かれている。教会とはそのような約束と光の中に置かれている群れである。