マルコによる福音書 8章31節−9章1節
本日の箇所は、先週学んだ部分の続きである。ペトロは弟子たちを代表する形で「メシヤ」告白をなした(8:29)。「メシヤ」とは「キリスト」という意味であり、イスラエルの民に預言者を通して与えられた「メシヤを遣わす」という神の約束が主イエスにおいて成就したという告白である。ユダヤ人たちは長い間、神が遣わす「メシヤ」を待ち望んでいた。しかし、そこで期待されていたのは「政治的な解放者、王」としての「メシヤ」であった。イスラエル王国の時代より、彼らの国は常に周囲を大国に囲まれた「支配と抑圧」の歴史のもとにあった。主イエスの時代においてもまた、ユダヤはローマ帝国の支配下にあった。ローマは支配地の治安を守るため、それぞれの地域に駐留軍を置いた。そして、その地域から軍を維持するための費用を徴収していたのである。このような課税は人々の生活を圧迫していた。そのような状況の中でユダヤ人たちは「政治的メシヤ」を待望していたのである。それはペトロにおいても同様であった。
主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(31節)と語り始められた。神のご計画としてこのことは「必ず」成る。その中で神が救い主を送るが、彼はユダヤの「神の民」を治める指導者たちに排斥され殺される。ここに、神が選び用いようとする「神の民」の不信仰と罪が表出している。
ペトロの思い描いていたのと全く異なる「メシヤ」像をご自身のこととして「はっきりとお話しになった」主イエスを、ペトロは「わきへお連れして、いさめ始めた」(32節)。ペトロもまた、主イエスを排斥しようとしている者たちと同じ過ち、神に対する罪を犯していた。ペトロは、自分の期待している「メシヤ」像を主イエスに押し付けているので、それと違うことを言い出した主イエスをいさめたのである。
「神なら、救い主ならこのような方であるはずだ、このように自分たちを解放してくれるはずだ」という願望の押し付けを、主イエスは厳しく退けられた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33節)。「引き下がれ」とは「わたしの後ろに退きなさい」「わたしの前に立ってわたしを連れて行こうとするのではなく、わたしに従ってきなさい」という意味である。
主イエスがご自身のこととして受け止めた「苦しみに遭うメシヤ」の姿は、旧約聖書に示されている。預言者を通して語られた「メシヤ」は、イザヤ書53章の預言に代表されるような、苦しみを通して人間の罪を赦し、神との交わりの中に導き入れようとする「メシヤ」であった。その「メシヤ」は人間の神に対する不信仰の背きのゆえに、人間に代わって打ち砕かれる。「メシヤ」は「償いの献げ物」(イザヤ53:10)としてご自身を献げられるが、「自らの苦しみの実り(口語訳では「光」)を見、それを知って満足する」(イザヤ53:11)。苦しみの中で、その苦しみにより神が救いのわざを成し遂げられ、それを見て満足する「主のしもべ」、主イエスはこのような「メシヤ」意識を持っていたのである。
それから、主イエスは「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて」、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれた(34節)。「従いたい者」が「自分を捨てる」とはどのような意味であろうか。それは、ペトロのように自分の考えや願望に固執しそれを神に押し付けるような「自己主張」を捨て、あくまでも御言葉を聴き信じて従う生き方である。「自分の情欲を捨てる」とか「禁欲」ということの勧めではなく、「神をしもべにして自分が主人になる信仰」を捨てることが求められているのである。
また、「自分の十字架を背負う」とはどのような意味であろうか。主イエスの生涯は「十字架の道」を歩む生涯であった。「十字架」とは「神から負わされた救い主としての使命」であり、それを負う歩みには苦しみが伴う。主イエスは十字架を眼前に「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)と祈られた。主イエスでさえもまた、この世において涙と祈りなしには、神に頂いた使命を果たすことができなかったのである。
我々にとっての「自分の十字架」とは、第一義的には「主イエスに従うキリスト者としての生き方、役割」である。主イエスを証しし伝道し、奉仕する中には必ず「苦しみ」が伴う。しかし、それでも信じ従う中で、それぞれが与えられた役割と苦しみを引き受けて生きていくことが求められている。そして、その苦しみを通してこそ神が与えて下さる「実り」「光」、すなわち永遠なる神に結ばれた「霊的な生命」を見させて頂くことができるのである。
また、この「自分の十字架」の意味は更に広く捉えられてもよい。我々は人生において様々な役割や責任を担う。そしてそこには必ず「苦しみ」が伴う。それらを引き受けていくこともまた、「自分の十字架を負う」ことであろう。「病」も神から負わされた重荷である。「介護」「子どもの養育」などの歩みにも様々な苦しみが伴う。しかし、それらを「神から負わされた使命」として、祈り信じつつ積極的に受け止めて行く中で、神に叫び祈るその中で、神は共におられ、「実り」「光」を与えて下さる。その中で「本当の生命」を頂くことができる。主イエスがそのように生きられたのであるから、信じて従う者もそのような生き方に招かれているのである。