マルコによる福音書8:1-11
今回の箇所は「4000人に食べ物を与える」という記事である。我々は少し前に同じマルコによる福音書から「5000人に食べ物を与える」(6:30−43)記事を学んだばかりである。しかし、マルコはここで「似たように思える別の出来事」も敢えて同じように語っているということを大事にしたい。この両者にはどのような違いがあるのであろうか。
まず、「5000人の給食」はガリラヤ湖を舞台にしていたが、「4000人の給食」はガリラヤの向こう岸・デカポリス地方を舞台にしている。そこはユダヤ人の地ではなく異邦の地であった。また、「5000人」の場面では、夕暮れになってしまった頃に弟子たちの方から主イエスに食事の手配について進言している。一方、「4000人」においては主イエス自ら、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」(8:2−3)と配慮されている。「5000人」で人々は「青草の上に」(6:39)腰を下ろしたが、「4000人」では「地面」(8:6)であるところから、この場面は「荒れた地」であったと想像できる。「人里離れた所」という状況は両者とも同じであったが(6:35、8:4)、「5000人」の場合は解散させられた人々が自力で食糧を調達できる可能性のあるような場所であったのに対し、「4000人」の場合はそれが不可能である場所のようである(8:4)。
そして、これらの場面に登場する「かご」についても、両者は質を異にする。「5000人」のほうで用いられた「かご」は、一般的にユダヤ人が食物を入れて持ち運ぶために用いられた「かご」であり、その数「12」は、イスラエルの12部族を象徴している。主イエスはこの場面で「ユダヤ人の救い」「ユダヤ人に対する神の恵み」を示されたのである。一方、「4000人」のほうで用いられた「かご」は、もっと大きなもので、ユダヤ社会の外でいろいろな物を持ち運ぶために用いられていた「かご」であった(cf.使徒9:25)。そしてその数「7」は「完全数」であり、「全世界の人々」を象徴する。このようにしてマルコは、この2つの出来事が全く違うできごとだということを描き出している。両者が共に語られることにより、マルコはイスラエルから始まりやがてすべての民に広がっていく主イエスの救いを読む者にイメージさせるのである。
主イエスによる救いの恵みとは、「罪の赦し」である。我々はその恵みに与るとき、神の御手の中に生かされ、神の国に自身の存在すべてが生きるようにされる。しかしながら、「救い」というと、それが「心の救い」のみに限定される傾向があるのではなかろうか。主イエスは、我々の心の中だけの主なのではなく、「全生活、全存在における主」である(cf.教会学校の目的「教会学校の目的は、その活動を通して、すべての人々がイエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、教会を形づくり、生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立して行くことにある」、日本バプテスト連盟、1971年制定、1999年改訂)。その方は、我々の魂だけではなく、肉体をも配慮してくださる。病も憐れみ、身体を癒すこともされる方である。そして、主イエスは我々の「生活」をも配慮してくださる。確かに「人はパンのみで生くるにあらず」と主イエスは教えられた。我々は「神の言葉」によって生きる。だからといって、では「日ごとのパンのことは度外視してもかまわない」というわけではない。それゆえ、主イエスは我々に「日ごとの糧を与えて下さい」という祈りを教えて下さったのである。
「山上の説教」において主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)と教えられた。まず信じて委ねること、聴き従うことが求められている。そうすれば、他の必要なものは添えて与えられるのである。まず主イエスがくださるのは福音であるが、すべてを支配しすべてを配慮してくださる方である主イエスを信じ、そのみ言葉を聴いていきたい。
祈りは、何を祈ってもよいとゆるされているが、「生活のことだけ」「食べ物のことだけ」というように偏った祈りをしてはならない。人々が神社でお参りをするように「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」を祈ってもよい。しかし、祈ったからといってそれらがそのまま頂けるわけではない。神の支配を信じ、その恵みの支配の中に生かしてくださる神に信頼し、くださるものを感謝して受けていく信仰が求められる。
一方、主イエスのくださる救いを「精神的な救い」「心の中の救い」に限定するのも間違いである。戦時中、日本のキリスト教会は「天皇とキリスト、どちらを信じるのか」と問われた。その時、多数のキリスト者は「両者の次元が違う」と答えた。すなわち、「天皇はこの世、社会的政治的領域を支配する方、キリストは心を支配する方」ということである。このような二元論的解釈は誤りであり、主イエスはすべてを支配し配慮される方である。まず神の国と神の義を求め、信じて従う者を、神は見捨てることがない。必要に応じて魂と肉体の糧を、最善と定められる仕方で満たして下さる。この不況と格差の時代、我々は実際に困窮に立たされることがある。その時、我々は経済的な問題も祈ることができる。そして、祈りのうちに「神は必要を満たして下さる」という信仰に立つことができる。不安な時にこそまさに主に信頼する信仰が問われていくのである。
また、我々は「与えられたものを他者のために用いていく」ことをも求められている。主イエスは弟子たちに「パンは幾つあるか」(8:5)とお尋ねになっている。主イエスは「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)というサタンの誘惑を受けられたが、それは主イエスが実際に「石をパンに変える」ことのできるお方であったからこその誘惑であった。しかし主イエスはこの場面でも弟子たちを通して、飢えて途方に暮れる人々に助けの手を差し伸べられた。「あなたがたに与えられているものを他者のために用いることができる、用いなさい」と主イエスは我々にも語ってくださるのである。