この「ペトロの手紙」は、端正なギリシャ語によって書かれている。ガリラヤの漁師出身であるペトロがこのような美文を書けるのであろうか。研究者の間では、一時期、この手紙はペトロによるものではないと言われたほどである。実際には、ギリシャ語が堪能であった同労者シルワノ(シラス)がペテロの意を汲みつつ記した手紙であるという見解が正当であると言われている。
ペトロは後年、主の弟ヤコブにエルサレム教会を託し、主の命令に従い、出て行って福音を宣べ伝えた。明らかにされていない部分も多いが、自分が各地に建てた教会だけではなく様々な教会や土地を回り、最後にはローマに行き、そこで殉教したと言われている。
イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。(1:1)
これらの地名は、ローマの州名である。この手紙は、ひとつの教会や個人に宛てられたものではなく、様々な教会で回覧される「公同書簡」と呼ばれる類のものであった。
「各地に離散」とは、「散らされたユダヤ人」ということではなく、「全世界に新しい神の民として散らされている」という意味である。「仮住まい」には、「キリスト者はこの地上においては寄留の民であり、その本国は天である」という意味がある。この短い文言の中に、キリスト者の特色が凝縮され示されている。
あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、・・・(1:2)
神は長い計画の中で救いと新しい神の民を立てられた。キリスト者は“霊”によって「聖なる者」とされたが、それは「清浄」という意味ではなく、「神からきよめわかたれ神の民とされた」という意味である。そして新しい神の民は、イエス・キリストに従うことを目的とする。「信じる」だけではなく、「従う」のである。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。・・・(1:3前半)
ここで「神」は「わたしたちの主イエス・キリストの父」と言い表されている。つまり、キリストが「(子なる)神」であることが前提とされているのである。キリストが神でなかったら、十字架の死も単なる人間の悲壮な死、人々の苦しみを甘んじて受けた英雄の死になってしまう。
・・・神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、(1:3後半)
新生とは、イエスによって神の子とされることであり、それは決して自分の努力によるものではなく、神の豊かな憐れみによって頂けるものである。「生き生きとした希望」の根拠は、まさにキリストの復活である。
また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。(1:4-5)
キリスト者は既に新しくされたが、それだけでは終わらない。ここで言われているような「宝」が待っている。我々は精進努力して救われ、この「宝」を手にするのではない。神が守っていて下さるのである。我々はその守りと導きを、既に今、頂いて生きている。
それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。(1:6-7)
人の生涯は長い命も短い命もある。しかし、神の目には「今しばらく」である。
その中で我々は信仰の試練(テスト)に遭わなければならない。その中で絶えず精錬され、本物にされていく。その時、神が我々の信仰を守り強めて下さるのであるから、キリスト者の生涯や教会の歩みの中に試練が与えられたときに、「そのようなものはあってはならないのだ」と驚くことはない。神から頂いた試練として受けるべきなのである。