人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。(18:20−21)
我々も計画を定めるが、常に「御心が成るように」と祈り願い、神の導きに従う者でありたい。パウロはもう少々エフェソで伝道することも考えたに違いないが、早々にエルサレムやアンティオキアに向かわなければならない事情があった。ひとつは、長期にわたった第二回伝道旅行の報告をすること、もうひとつはエルサレムの信徒を支援するためにマケドニア州やアカイア州でささげられた献金を早く届けることであった。
さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。(18:24−26)
アポロは、有名な哲学者フィロンのもとで旧約聖書を学んだ聖書学者であると考えられる。彼に対して、プリスキラとアキラは礼を尽くしながら「もっと正確に神の道を説明した」。ここでは他の箇所と違い妻プリスキラの名が先に出てくる。恐らく彼女は賢く、教える賜物を持っていたのであろう。また彼女は、パウロと共に伝道する中で、パウロの聖書理解を身近に学び、よく知っていたためにこのような役割を果たすことができた。
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソへ下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。(19:1-2)
「弟子」とは「キリストを信じる信徒」のこと。キリストを信じているのに聖霊を知らないとはどのような意味か。「聖霊」とは、「今も生けるキリスト」「霊なるキリスト」である。彼らは全く聖霊について知らないということではなく、「信じる者たちのところに聖霊が臨む」「霊なるキリストが内に生きている」ということが分からなかったのである。イエスが聖霊について語っている箇所は、以下を参照。ヨハネ7:37−39、ヨハネ14:16−19など。
パウロが、「それなら、どんな洗礼(バプテスマ)を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼(バプテスマ)です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受けた。(19:3−5)
ヨハネのバプテスマは「悔い改め、方向転換」のバプテスマである。一方、主イエスの名によるバプテスマは「主イエスに結ばれて生きる」「生けるキリストとの交わりに生きる」バプテスマである。「主イエスの名によって」という語には「イエスの中へ入る」という原義がある。主イエスの名によるバプテスマを授かる時、我々はキリストにあって罪に死に、復活の命に生かされる者となる。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。(19:6)
聖霊の主は、一人ひとりに、キリストに仕えるための霊の賜物を授けてくださる。按手の理解や様式は教派によって様々であるが、教会に仕える霊の賜物が与えられるようにと、手を置いて祈るのである。