しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。(20:24)
このように語ったパウロは、「どの人種の人々にも主の恵みを伝えること」が神から頂いた自らの任務であると考えていた。
どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。(20:28)
「群れ」とは「教会」であり、「気を配る」とは「牧会する」「世話をする」という意味である。当時、教会のリーダーである長老の役割は、「牧会をすること」であった。教会はまさに、キリストの尊い命を通して神が買い取られた民であり、神はその民を救いのご計画のために必要とされる。「神の民」はかつては「イスラエル」であったが、それは今や「教会」となった。
わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。(20:29−30)
パウロは教会にある「外からの迫害」「内からの誘惑」について語っている。教会は決して固定し安閑とした群れではなく、常に信仰の戦いを必要とする群れである。
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。(20:32)
パウロは、神の恵みの福音こそ教会を造り上げ、キリスト者を造り上げる言葉であると語る。パウロは神とその御言葉が教会を建てあげると信じ、委ねていたのである。
あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が「受けるより与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。(20:35)
パウロは最後に主の御言葉を説教して終える。何でも自分のものにする自己追求の生き方ではなく、与え、助けることが幸いである、それが神に救われた者の新しい生き方であることを思い出すようにと、主の御言葉は示す。御言葉に打ち砕かれ、促されながらその生き方に招かれているのがキリスト者である。