ヨハネによる福音書16:16-24
冒頭(16節)の「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが」「・・・わたしを見るようになる」の「見る」という語は区別して用いられている。前者は「肉眼で見なくなる」、後者は「霊的な信仰の目で見る」というニュアンスである。『口語訳聖書』では後者を「会う」と訳している。やがて主イエスのほうから我々に会いに来てくださるので、我々はその主イエスを信仰の目で「見る」ことができるというニュアンスが伝わってくる。
主イエスを再び「見る」とはどのような再会なのであろうか。主イエスはまず復活の主として現われてくださった。そして聖霊において来臨され、終わりの日に再び到来される。ここでは前後の文脈から、「聖霊における主イエスの来臨」という部分をとりわけ押さえたい。「しばらくすると」とは、原語では「ミクロン」、すなわち極小の単位を意味する語である。とりわけ「終わりの日に再臨の主イエスに出会う」ということを考える時に、「すぐに」「それほど時間がない」という感覚は我々には分かりづらい。主イエスの昇天から現在に至るまで、未だ再臨の時は来ていないからである。しかし神の歴史において、千年は一日のごとくである。我々はこの地上で再臨の主に会う日まで生きていないかもしれない。しかしこの世を去り目覚めた時には復活の朝を迎えることになる。信仰の目には、終わりの日、再臨の主に会う日も「すぐ」なのである。主イエスの逮捕と処刑は迫っており、弟子たちは悲嘆にくれていた。そのような状況において、「目の前には大変なことが迫っているが、すぐに希望の明日がくる」というメッセージを、主イエスは弟子たちに向けて語っておられるのである。
弟子たちは、主イエスが何をお話しになっているのか理解できないでいた(17-18節)。しかし心の鈍い弟子たちを主イエスは非難することなく、受け容れておられる。今、分からなくても、後で分かるようになる。そのことを信じ、その時を待ちながら繰り返し丁寧に話をされる主イエスの姿に、我々はここでも出会うことができる。
「はっきり言っておく」(20節)とは、主イエスが非常に大切なことを語られる際に、冒頭に置かれる語である。これから主イエスは捕らえられ処刑され埋葬される。弟子たちはそのような中で悲嘆に暮れることが予想される。しかし「世は喜ぶ」(20節)という。「ヨハネによる福音書」に頻出する「世」とはどのような意味であろうか。それは「神を信じない世界」である。そのような罪深い世に対し、神はどのように対応されるのであろうか。その端的な答えが「ヨハネによる福音書」3章16節に表わされている。神は不信の「世」を愛し、それゆえに主イエスをお遣わしになった。神に背を向けた不信の「世」を愛するゆえに、神は苦しまなければならなかった。主イエスも、また主イエスに従う弟子たちも、同じような悲しみや苦しみに出遭わなければならなかった。
しかし、「その悲しみは喜びに変わる」(20節)と主イエスは約束され、妊婦の譬えが語られた。弟子たちの苦しみや悲しみについて、原語では「痛み」という意味の語が用いられている。『新共同訳聖書』においては弟子たちの心の痛みを「悲しみ」と訳しているのである。目先のことだけに捉われるのではなく、明日の喜びの日があることに目を向けるようにと、主イエスは弟子たちを励まされた。主イエスご自身、非常に厳しい状況に立たされていた。しかし主イエスの目はその苦しみの先を見ておられる。我々の目をも、主イエスは明日へと向けてくださるのである。
弟子たちは悲しんでいるが、再び主イエスに会い、その時に心から喜ぶ(22節)。まずは復活の主イエスとの再会が備えられており、その後、聖霊において主イエスは出会ってくださる。聖霊によって主イエスが我々のところに会いに来てくださり、我々の内に留まり共にいてくださる、そのことが我々にとっての心からの喜びになるのである。「その日」(23、24節)とは、主イエスの「復活」の時であり、「聖霊降臨」「終末の再臨」の時が重ねて表現されている。「終末の再臨」の時は「神の国の成就」の時であり、「復活」「聖霊降臨」は「神の国の先取り」の時であり、これらのことによって既に「神の国」、すなわち「神の支配」は始まっている。我々は「神の国」に既に生かされている者なのである。そのような者に対して主イエスは23節以下の事柄を約束された。今既に、霊によって新たに創り変えられ、やがて成就する御国へと導いてくださる主が共にいて下さっている。「神の国に生きる」とは、何よりも「主イエスの名によって神に祈る」生き方である。祈りにおいて神との交わりを持つ中で、祈る者は聖霊の主イエスの働きを見せられる。祈りのない信仰生活であったなら、我々はここで約束される聖霊のみわざを拝し、喜びにあずかることができない。我々の中には「祈っても聞かれるのだろうか」という不信や不安があり、なかなか祈ることができない時がある。しかしここで語られるのは、拙い言葉であろうとも小さな声であろうとも、神は祈りをしっかりと聞いておられるという約束である。そして、神の御心に適う時と所において、神のみわざを成してくださるという約束である。これらのことを我々は、信仰生活の歩みの中で少しずつ知らされていくのである。