列王記上17:1-24
「列王記」においては、今から約2800年前に起こったイスラエル王アハブと預言者エリヤの対立・対決が物語られている。約3000年前、ダビデはイスラエル統一王国を樹立し、次王ソロモンの時代には神殿建築事業が成し遂げられた。しかしその後、王国は北イスラエル(首都サマリア)と南ユダ(首都エルサレム)に分裂することになる。
アハブは北イスラエル王として紀元前874年に即位した。彼について聖書は口を極めて「悪い王」と語るが、実際、アハブは「王」としては非常に有力な人物であり、国家を強く繁栄させた政治家であった。当時、隣国アッシリア帝国は勃興するエジプトの勢力と対抗しつつ、近隣諸国を脅かす存在であった。そのため小国は互いに同盟関係を結ぶなどして自国を防衛しなければならなかった。そのような状況の中で、アハブは「シドン人の王エトバアルの娘イゼベル」(列王記上16:31)を妻として迎えた。イゼベルは夫をそそのかし、バアル宗教を推進していく。バアル神は豊穣・収穫の神であり、バアル宗教の地においては像を造り各地に祭壇を立てて豊かな収穫を願うのである。そのような意味で、それは「現世御利益」を願う宗教であり、政治政策と結び付く宗教であるとも言える。
アハブとイゼベルにより、まことの神ヤハウェのみを神とするべきイスラエルの信仰が危うくされていく。そのような状況の中で立てられたのが「預言者」であった。信仰的な危機感を持ち、エリヤは王と対立する。しかし当然のことながら権力は王であるアハブの側にある。対立の中でエリヤは逃亡せざるを得ない場面に追い込まれることもあった。列王記上17章はそのような場面である。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(17:1)という主張により、エリヤは国家からの迫害を受ける身となったのである。
神に命じられたとおり「ヨルダンの東にあるケリトの川のほとり」(17:3)に身を隠したエリヤを、神は「数羽の烏」(17:5)を用いて養わせた。しかし「しばらくたって、その川も涸れてしまった」(17:7)ため、再びエリヤは神に命じられたとおり「シドンのサレプタ」(17:9)に移り住むことになった。このところでエリヤは「一人のやもめ」(17:10)に出会う。彼女は貧しく、死の淵に立つ頼りない女性であった。しかし、結果として神は彼女を用いてエリヤを養わせる。「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」(17:16)。
聖書には多くの「奇跡物語」が収録されている。「このようなことが起こるわけが無い、なぜこのようなことが描かれているのか」と思えるようなことが書いてある「聖書」とは、いったいどのような書物なのであろうか。当教会の「信仰告白」には「聖書はすべて神の霊感によって書かれたものであって、わたしたちの信仰と実践の誤りのない基準であります」と表明されている。しかし聖書にはそのままでは到底受け入れられないような言葉もある。では、だからといって「とんでもない書物だから信じない」と言って我々が聖書を捨ててしまうのであろうか。我々は聖書に対する立場をどのように表明していくべきであろうか。
聖書は単に過去の出来事を時系列に沿って記す「歴史書」ではない。聖書はその出来事の背後にある「意味」、神がこの出来事の中でどのように働いておられるかを語りながら「歴史」を物語っていく。そのような意味で聖書の言葉は「信仰の言葉」「宗教的言語」であると言える。
本日の箇所に「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(17:1)というエリヤの言葉がある。「聖書は神の言葉」という時、それは聖書の言葉が「神は生きている」という信仰を表明する言葉として全く誤りのないものであるということを指す。そのような意味を踏まえずに読む時、そこに躓きが生じる。
しかし、「信仰の事柄」を語るのに聖書はなぜ「歴史」を語るのであろうか。それは、我々の信ずる神は、我々が生きているこの「歴史」の中で生きて働いておられる神だからである。それゆえに聖書は「歴史」を捨てるわけにはいかない。エリヤの物語は、北イスラエルとエリヤ自身の「歴史」の中で神が生きて働いておられたことを我々に告げる。エリヤが逃亡生活の中で行き詰る時、神はエリヤを生きながらえさせ、やもめとの出会いの中で養われた。エリヤの物語は「神は生きておられる」ということを語る信仰の物語であるが、それを語るためにはアハブのこともやもめのことも語らなければ成立しない。「奇跡としか思えない」というような在り方で神はエリヤを導かれ、「列王記上」はこのように語る。信仰の事柄を語る時、「奇跡」「象徴」「宗教的言語」は必要なものである。このような「歴史」「物語」はエリヤだけでなく、我々一人ひとりにも与えられている。「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう務めなさい」(Ⅱペトロ1:10)との勧めがあるように、キリスト者は神に召され、選ばれている一人ひとりである。「神は生きておられ、わたしを捉えてくださった」「その生ける神がわたしを今日まで導かれた」という確信により、我々は頂いた救いの約束に対しても希望を持ち続けることができるようになるのである。