マルコによる福音書 10:1-12
この箇所に新共同訳聖書は「離縁について教える」という表題を付けている。確かにファリサイ派の人々は「離縁」というテーマを用いて主イエスを試そうとした(2節)。しかし、主イエスはここで「離縁」について積極的に教えているというよりも、むしろ「結婚」について教えておられるのである。
なぜ、ファリサイ派の人々は「離縁」というテーマで主イエスを試そうとしたのであろうか。当時、「離縁」について語っている律法をめぐる律法学者たちの解釈は様々であった。もし、ここで主イエスが「離縁」について何事かを語られたとしても、それは数多くある解釈の中の一つでしかなく、そのことを指摘することで主イエスの教えを「絶対的なものではない、相対的なもの」として位置付けたいという彼らの狙いがあったのである。
すると主イエスは「モーセはあなたがたに何と命じたか」と問い返された(3節)。彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と回答した(4節)。しかし、モーセは決して「離縁」を積極的に推奨し命じているのではない。しかし、当時の女性は「家の持ち物」「父や夫の所有物」のようなものであり、夫から一方的に「離縁」を言い渡された場合、何の権利もない弱い立場におかれていた。そのため、女性の権利が守られるために、「離縁」がなされる場合には正式な「離縁状」を書いて渡すことが条件とされていたのである。
主イエスは、6節以降で「結婚」について教えておられる。「結婚」は「創造の秩序」に基づくものである。そして、「結婚」する両者は「父母を離れて」(7節)「一体」(8節)となるべきである。「結婚」に際して両者は親から自立し、父母にまさって強い絆で結ばれ、新しいひとつのからだにされていく。ここに「結婚」の深い意義がある。しかし、それは両者が全く違いのない存在になってしまうということではない。両者は個々の賜物や個性を持ちつつ、今までとは違う絆で結ばれ、新しい生活が始まっていくのである。両者は「結婚」によって神の前で人格的な関係で結ばれ、切り離されない関係にされる。これが「二人は一体となる」ということである。
そして主イエスは「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)と教えられた。「結婚」は人間の思いを超えた「神の御旨」であるということを、信仰によって受け入れていくことによって、「結婚」は祝福されたものとなる。人間の判断だけで決められた「結婚」であるなら、人間の判断で簡単に別れることができる。しかし、「神が結び合わせてくださった」相手と向き合い続けるところに「結婚」の祝福がある。「結婚」の関係の中で両者は愛し合い、忍耐しあい、ゆるし合うという「人格的な関係」を学ばされる。
しかし、「離してはならない」という部分を、「離婚してはならない」という「律法」として受け止めてはならない。「結婚」を続けるということは耐えがたい苦しみが伴うことであり、最も愛が求められる関係の中で共に生きることが辛くなるという危機は誰しもが経験するものである。それでもなお、離別の危機を主の言葉によって乗り越えさせて頂き、絆が更に深められていくところに「結婚」の祝福がある。
シュヴァイツァーは著書の中で次のようなことを語った。長い結婚生活の間には、この「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という言葉が大きな助けになる時が何度も到来する。この言葉の前に、神の前に誓約を交わして「結婚」した者たちは、その「結婚」の危機に際し、主の言葉によって乗り越えさせて頂く時期がある。主の言葉に従うことで「結婚」の危機を乗り越える恵みを与えられるのである。「離婚」とは、何度も繰り返し相手への接近を探り求め、相手と子どものために利別に至らざるを得ない場合にようやくたどりつく「例外的可能性」である。その時両者は、「神が結び合わせてくださった」相手との「結婚」を全うできなかったという罪を告白し、その責任を背負う。共にいることで甚だしい犠牲が生じ、状況が改善される見込みのない場合、「結婚」の祝福に招かれた自分が互いに受け入れ合えなかったという罪を認めつつ別離の道を選び取るということは「例外的事例」である。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という主イエスの言葉は、「離婚してはならない」という「律法」ではなく、「自分が頂いた祝福をどう受け止めることができたか」を我々に問う言葉なのである。
夫婦の関係の中においては、相手の罪や問題をゆるせないことがある。とりわけ、人格を傷つけられるような罪を犯された場合、ゆるすということは難しい。しかし、その時にも「主イエスがわたしの罪をゆるしてくださり、わたしのためにどんなに大きな苦しみと犠牲を払ってくださったか」ということに心を向けなければならない。すぐに「離縁」を決断するのではなく、「ゆるし」の中で関係を修復することが求められている。夫婦の関係を支え深めるのが「ゆるし」である。祈ってゆるしあうということは、神の助けなしにはできない。
また、このテーマを考える際には、「天の国」のために独身者として生きるという召しを頂く人もいることをもおぼえなければならない。